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  • JR方谷駅の由来は? - 越後長岡の河井継之助を描いた「峠」のなかで、司馬遼太郎は次のように書いています。
  • 井伊直弼 - その後、日米修好通商条約をはじめとする安政の五か国条約に、朝廷の勅許を得ないで調印を断行し、江戸幕府13代将軍家定の継嗣問題では、徳川慶福(よしとみ)を14代将軍に決定しました。また、この際、反対派であった一橋派・尊王攘夷派を弾圧(安政の大獄)するなど、辣腕をふるいました。安政5年(1858年)4月には大老に就任しましたが、万延元年(1860年)3月3日に江戸城桜田門外で水戸・薩摩藩浪士に暗殺され、46年の生涯を終えました。
  • 下田条約 - (2)1857年、ハリスと下田奉行の間で調印された条約。長崎開港・領事裁判権などを規定。日米和親条約を補うとともに、日米修好通商条約の先駆となった。下田協約。日米約定。
  • 河井継之助関連本 - 第1章 長岡藩とはなにか/第2章 運命の旅/第3章 苦い思い出/第4章 継之助登場/第5章 英雄の人たらんか/第6章 越の山嵐/第7章 長岡大戦争/第8章 八十里峠
  • 岩倉具視 - 関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始めた。安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参。朝廷での地位を築いた。
  • 恭順 - 命令に対してつつしみ従うこと。かしこまって従うこと。
  • 熊沢蕃山 - 1634(寛永11)岡山藩主池田光政に児小姓役として出仕。1639年(寛永16)池田家を致仕、近江国桐原の祖父の実家へ移居。1642年(寛永19)中江藤樹に陽明学を学ぶ。1645年(正保 2)再び光政に仕え、1647(正保4)側役、知行三百石。1649年(慶安2)光政に随行して江戸参府。1650年(慶安3)鉄砲組番頭、知行三千石。
  • 差配 - 「敷金と家賃と―の名とを、手帳に書き留めて出た/雁(鴎外)」
  • 桜田門外の変 - 1860年3月3日、大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士ら一八名により暗殺された事件。勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことや安政の大獄による弾圧などに対し、水戸浪士が憤激して起こした。
  • 山田方谷関連のおすすめ書籍 - !!!峠
  • 小林虎三郎 - 崇徳館で学び、若くして助教を務める。23歳の時、藩命で江戸に遊学、兵学と洋学で有名な佐久間象山の門下に入り、長州の吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称せられる。
  • 条約改正 - 江戸末期の1858年に欧米諸国と結んだ通商条約(不平等条約)の改正。治外法権の撤廃、関税自主権の回復などが中心。歴代の外相が努力し、1894年(明治27)外相陸奥宗光が日英通商航海条約において治外法権撤廃に成功(1899年実施)、1911年(明治44)外相小村寿太郎によって関税自主権が回復された。
  • - 峠
  • 徳川家茂 - (1846-1866) 江戸幕府第一四代将軍(1858-1866)。紀州藩主徳川斉順の長男。幼名菊千代。紀州藩主時代の名は慶福(よしとみ)。井伊直弼(なおすけ)に擁立され、皇女和宮を迎えて公武合体策を推進。第二次長州征伐出陣中大坂城で病死。
  • 日米修好通商条約 - 日米修好通商条約
  • 米百俵の由来 - 長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説『峠』で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。
  • 幕末辞典 - 日米修好通商条約
  • 明治維新 - 一九世紀後半、江戸幕藩体制を崩壊させ、中央集権統一国家の建設と日本資本主義形成の起点となった政治的・社会的変革の過程。始期あるいは終期をめぐって諸説があるが、狭義には、1866年の薩長連合に始まり、67年の大政奉還・王政復古宣言、68年の戊辰戦争を経て明治政府の成立に至る政権交代とそれに起因する諸政治改革をいう。
  • 木戸孝允 - 同3(1870)年6月参議に就任、4年7月の廃藩置県の断行にも西郷隆盛とならぶ参議として重責を担った。この間、開明急進派のリーダーとして、漸進派の大久保としばしば意見の対立をみた。同年11月より岩倉遣外使節団副使として欧米を回覧して6年7月に帰国、憲法制定を建言した。西郷らの征韓論(明治6年の政変)には、内治派として岩倉具視や大久保利通らと共に反対した。
  • 陽明の希望と挫折 - 捜し物を諦めたとき、ふっと出てくるのと同じように、肩の力が抜けたのか、翌年、28才のときに、遂に念願の進士の試験に合格、晴れて出仕した。
  • 陽明学 - 中国明代の王陽明およびその学派の新儒教学説。元・明代に官学として重んじられた朱子学の主知主義的理想主義的傾向に対して現実主義的批判を加え、主体的実践を重視した。心が理であるという心即理(しんそくり)、生来の道徳的判断力を発揮せよという致良知(ちりようち)、認識と実践を一致させよという知行合一(ちこうごういつ)、欲望を肯定する無善無悪などを主要な学説とする。王学。
  • 頼山陽 - (1780-1832) 江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。名は襄(のぼる)、通称は久太郎、別号を三十六峰外史。春水の長男。江戸に出て尾藤二洲に学ぶも、性豪放にして遊蕩に日を送り、自邸内に監禁。のち上京して書斎「山紫水明処」を営み、各地を遊歴、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺した。その著「日本外史」は幕末期における歴史観に大きな影響を与えた。他に著「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。