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- 王政復古 -
(1)王政から武家政治・共和制に移った後、再び王政に戻ること。日本の明治維新、フランス革命後の王朝政治の復活など。
- 河井継之助関連本 -
!!!河井継之助と明治維新
- 五榜の掲示 -
明治維新政府による庶民政策を示す五条の太政官高札。慶応四年(1868)3月15日、五箇条の誓文発布の翌日掲示。五倫の道の勧め、徒党・強訴・逃散の禁止、キリシタン・邪宗門の禁止、外国人殺傷暴行の禁止、士民の本国脱走禁止の五条。
- 佐藤一斎 -
まさに安政の大獄で揺れる最中、明治維新まで9年の激動の時代であった。
- 三島中洲 -
明治維新後は新治裁判所長・大審院中判事となる。
- 山田方谷に関する100の質問 -
!!9.明治維新時代
- 松代藩 -
明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加した。
- 進鴻渓 -
備中松山藩士。漢学者。名は漸。通称は昌一,郎。鴻渓は号。阿賀郡唐松村(現新見市唐松)に生まれる。一八歳の時、山田方谷に師事した。弘化四年(一八四七)に藩校有終館学頭となった。その後、撫育銀方総裁兼農兵頭など歴任した。慶応四年(一八六八)戊辰戦争の後には藩存続のため尽力した。明治維新後は世事砂ら離れ、教育に専心し多くの人物を育てた。
- 天狗党 -
天保年間、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の藩制改革に伴い、下級藩士を主体に結成された改革派グループ。保守門閥派の諸生党と激しく対立。1864年、攘夷延期を不満として筑波山に挙兵、武田耕雲斎・藤田小四郎を主導者とする一派は、心事を一橋慶喜を通して朝聞に達すべく、上洛の途についたが、加賀藩に降伏。武田以下数百名は敦賀で斬刑に処せられた。その後も明治維新に至るまで藩政の主権をめぐって保守派と凄惨な争いが続いた。
- 徳川家達 -
政治家。田安慶頼の三男。幼名亀之助。明治維新後、徳川宗家一六代を継ぐ。1890年(明治23)以後貴族院議員、同議長を歴任。
- 服部犀渓 -
有終館教授や農兵頭などを歴任した。明治維新後の明治七年(一八七四)に山田方谷の推薦で久米南条郡大戸下村(現橿原町大戸)にあった知本館の教督として教えた。
- 幕末辞典 -
明治維新
- 明治維新 - 明治維新