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松代藩


松代藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国内にあった藩の一つで、信濃の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、松平家(越前)、真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。

沿革

川中島藩時代
川中島四郡は信濃国北部の高井郡、水内郡、更級郡、埴科郡の四郡を指し、戦国時代の川中島の合戦で武田氏と上杉氏の係争地となったところである。その支配の中心は、武田信玄が上杉謙信との戦に備え、山本勘助に命じて築城させた海津城(松代城)に置かれた。

近世大名領の成立は関ヶ原の戦い後の森忠政が13万7千石で川中島に入封したことに始まる。忠政は「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により川中島領の領国化に勤めたが、全領一揆などにより十分な成果が上がらぬまま1603年(慶長8年)美作国津山藩に転封となる。

その後徳川家康の子、松平忠輝が越後国高田藩へ移る1610年(慶長15年)までの7年間、14万石を領有した。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。

松平氏・酒井氏統治時代
1616年(元和2年)に結城秀康の子松平忠昌が12万石にて松代城に入封して以降この地は松代藩領と呼ばれる。忠昌は1619年(元和5年)に越後国高田藩へ転封。

代わって酒井忠勝が10万石で入封するが、1622年(元和8年)には出羽国庄内藩に移る。この間、同地には岩城家(1616年-1623年:後出羽国亀田藩に転封)と福島家(1619年-1624年:安芸国広島藩改易後の堪忍領。後に改易)の領地も存在し、これらも川中島藩と称されることがある。

真田氏統治時代
1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が10万石で入封した後、幕末までこの地は真田家の所領として続く。真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府の扱いは帝鑑間詰譜代大名であった(豊臣政権下での真田昌幸(信之の父)はあくまでも徳川家康の与力大名と言う位置づけであったため)。

信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年(享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。

4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。1751年(宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた。

信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。

幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。

9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜警備を命じられ藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年(安政2年)に開校した。

明治維新の際、当藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、戊辰戦争には新政府軍に参加した。

1871年(明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。

1884年(明治17年)華族令施行に伴い、藩主家は子爵を授けられた。(のちに伯爵に陞爵)

城地
松代城(1560年(永禄3年)築城):長野県長野市松代町

歴代藩主
各藩主に記載された年号は在任期間

川中島藩

森(もり)家
外様 137,500石 

忠政(ただまさ)〔従四位下、右近大夫・侍従〕 1600年(慶長5年:美濃国金山より)-1603年(慶長8年:美作国津山藩へ)

松平(まつだいら)家
親藩 140,000石

忠輝(ただてる)〔従四位下、左近衛少将〕 1603年(慶長8年:下総国佐倉藩より)-1610年(慶長15年:越後国高田藩へ)

松代藩

松平〔越前〕(まつだいら〔えちぜん〕)家
親藩 120,000石

忠昌(ただまさ)〔従五位下、伊予守〕 1616年(元和2年:常陸国下妻藩より)-1619年(元和5年:越後国高田藩へ)

酒井(さかい)家
譜代 100,000石

忠勝(ただかつ)〔従四位下、宮内大輔〕 1619年(元和5年:越後国高田藩より)-1622年(元和8年:出羽国庄内藩へ)

真田(さなだ)家
外様(譜代格) 100,000石

信之(のぶゆき)〔従五位下、伊豆守〕 1622年(元和8年:信濃国上田藩より)-1656年(明暦2年)
信政(のぶまさ)〔従五位下、内記〕 1656年(明暦2年)-1658年(万治1年)
幸道(ゆきみち)〔従四位下、伊豆守〕 1658年(万治1年)-1727年(享保12年)
信弘(のぶひろ)〔従五位下、伊豆守〕 1727年(享保12年)-1736年(元文1年)
信安(のぶやす)〔従五位下、伊豆守〕 1737年(元文2年)-1752年(宝暦2年)
幸弘(ゆきひろ)〔従四位下、右京大夫〕 1752年(宝暦2年)-1798年(寛政10年)
幸専(ゆきたか)〔従四位下、弾正大弼〕 1798年(寛政10年)-1823年(文政6年)
幸貫(ゆきつら)〔従四位下、右京大夫〕 1823年(文政6年)-1852年(嘉永5年) 老中(1841年(天保12年)-1844年(弘化1年))
幸教(ゆきのり)〔従四位下、右京大夫〕 1852年(嘉永5年)-1866年(慶応2年)
幸民(ゆきたみ)〔従二位、信濃守〕 1866年(慶応2年)-1869年(明治2年:版籍奉還)

著名な藩士
恩田木工:6代幸弘に仕えた勝手方家老。松代藩の財政再建に尽力する。
佐久間象山:信濃守幸貫が抜擢した蘭学者。急進的な開国論者であったため京の三条木屋町で暗殺される。

関連項目
藩の一覧
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BB%A3%E8%97%A9" より作成
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