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  • 岩倉具視 - 孝明天皇が没し、明治天皇が即位すると復職。工作により「倒幕の密勅」が薩長に降りたが、徳川慶喜の大政奉還を朝廷が受理し、先を越される。しかし、岩倉主導で「王政復古の大号令」のを発し王政復古が実現した。続いての小御所会議では明治天皇の御前で慶喜の辞官と領地返上を主張、決定させた。
  • 山田方谷 - ここまではよく言われていることですが、山田方谷の神髄はこれだけにとどまりません、改革終了後、世は幕末の動乱期で、松山藩の藩主である板倉勝静は江戸幕府の筆頭老中で徳川慶喜につぐナンバー2という地位にありました。しかしご存じの通り江戸幕府は崩壊し松山藩は賊軍として薩長や備前の軍勢に取り囲まれました。
  • 彰義隊 - 1868年、徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊。慶喜護衛・江戸警備の名目で上野寛永寺に拠ったが、大村益次郎指揮の官軍によって壊滅。
  • 鳥羽伏見の戦い - 1868年1月27日(慶応四年1月3日)に起こった旧幕府軍および会津・桑名藩兵と、薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で徳川慶喜(よしのぶ)の辞官納地を決定したのに対し、旧幕府方が挙兵、鳥羽・伏見で薩長軍と交戦。戊辰(ぼしん)戦争の発端となったが旧幕府軍の大敗に終わり、討幕派の優勢が確立した。
  • 討幕の密勅 - 1867年10月14日、薩長両藩にひそかに手渡された徳川慶喜追討の勅書。形式が異例で、偽勅説もある。同日の大政奉還により密勅の名分は失われた。
  • 徳川慶喜 - 徳川慶喜
  • 板倉勝静 - 文久2年(1862)老中となり幕政を担当するが、元治元年(1864)罷免され、翌年再び老中に復す。徳川慶喜の信任が厚く、よく将軍を補佐して幕政改革に尽力し、大政奉還に努力する。鳥羽・伏見の戦の後隠居し、松叟と号した。
  • 幕末辞典 - 徳川慶喜