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調所広郷


江戸時代の代表的な財政改革の比較

調所広郷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

調所 広郷(ずしょ ひろさと、1776年3月24日(安永5年2月5日) − 1849年1月12日(嘉永元年12月18日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。名は広郷のほか清八、友治、笑悦、笑左衛門。

生涯

下級武士川崎兼孝の息子として生まれ、1788年に調所清悦の養子となる。茶坊主として、出仕て、98年に江戸へ出府し、隠居していた薩摩藩主の島津重豪にその才能を見出されて登用される。薩摩藩主島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任、藩が琉球や中国と行っていた密貿易にも携わる。1833年には家老に出世し、藩の財政改革に取り組んだ。

当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は、行政改革、農政改革をはじめ、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い、だが、実際には1872年の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。そして、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、1840年には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えができるほどにまで財政が回復した。

やがて藩主・斉興の後継者を巡る長男の島津斉彬と三男の島津久光による争いがお家騒動(のちにお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似て西洋かぶれである斉彬が藩主になることで、再び財政が悪化することを懸念してのことであると言われている。

斉彬は幕府老中の阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。1848年、調所が江戸城に出仕した際に密貿易の証拠を突きつけられる。同年12月、江戸桜田の薩摩藩邸にて自殺、享年73。責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとしたためであるとも言われる。死因は自害、服毒とも。

死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。 墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。

調所広郷の直系子孫は、現在、東京に移住した調所広光(故)の息子、調所広之と広之の息子、宏繁(長男)と宏謙(次男)。

評価

広郷は、現代では薩摩藩の財政を再建させたことは評価されている。しかし、砂糖の専売では百姓から砂糖を安く買い上げたうえに税を厳しく取り立てているうえ、借金の返済でも証文を燃やしたり商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて、その評価は清風と同じく財政を再建させたとはいえ、その一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。しかし、彼の財政改革が後の斉彬や西郷隆盛(吉之助)らの幕末における行動の基礎を作り出したのも事実で、彼を悪人と評すか功労者と評すかは意見が分かれるところもある。

鹿児島県鹿児島市には、広郷の銅像がある。

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1776年生 | 1849年没