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  • 江戸遊学の師匠・佐藤一齋とはどんな人物? - 佐藤一斎は幕末の儒学者で、著書「言志四録」は幕末から明治にかけて多くの日本人に大きな影響を与えました。
  • 佐藤一斎 - 佐藤一斎
  • 最初の師匠・丸川松隠ってどんな人物? - 丸川松隠は幕府昌平黌の学頭として知られる佐藤一斎と大坂の竹井竹山塾で肩を並べて学ぶ同門人で、この頃、老中・松平定信は優秀な才能を発掘して昌平黌の学官に登用しようと人材を捜していました。そこに浮き上がってきたのが他でもない丸川松隠でした。しかし丸川はこの老中直々の要請に対し「私は新見藩の人間であり、新見藩以外で養ってもらう気はない。」と竹井を通し断ってしまいました。
  • 三島中洲 - 14歳で山田方谷に従学する。29歳のとき昌平黌に入り佐藤一斎に学ぶ。30歳で備中松山藩に仕官し、藩学有終館会頭となり、のち学頭に進む。文久元年(1861)藩学教授の傍ら家塾の虎口溪舎を小高下に起こし、明治初年最も隆盛を極め、学徒は十二藩に及び塾舎常に60〜70人を越す。
  • 川田甕江 - 備中国浅口郡に生まれる。父は同国玉島の回船問屋であったが幼いうちに両親に先立たれて没落し辛い少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられる事となった。その時備中松山藩の執政であった陽明学者山田方谷が藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。甕江は備中松山が故郷に近い事に加えて、わずか数年で松山藩の財政再建を実現させた山田方谷の学識と手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩の半分の備中松山藩への仕官を決めたのである。安政4年(1857年)28歳の出来事であった(ちなみに甕江の仕官前に彼の評判を聞いた方谷は自分の力量を認めて弟子を江戸に送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。
  • 日本の陽明学者 - !!!佐藤一斎
  • 方谷と佐久間象山 - 方谷は天保四年、幕府の学会の巨頭である佐藤一斎の塾「佐藤一斎塾」に入門する。佐藤一斎塾には全国から蒼々たる面々が入門しているが、方谷入門の二ヶ月前に入門したのが松代藩の佐久間象山だった。
  • 方谷の人間研究 - 「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文である。
  • 方谷の陽明学 - 方谷が江戸の佐藤一斎蟄で当時の俊英達と切礒琢磨していたころ、学友違が王陽明の学説に口を借りていたずらに雄弁をふるって人を圧倒するのが見られたが、しかし細かにその人物を観祭すると、高慢不遜で人間の道をわきまえた者が少ない。方谷はこれは陽明学の学び方が間違っているのであると言っている。
  • 幕末辞典 - 佐藤一斎
  • 理財論 - 「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斎塾在塾中に書いた小論文である。