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致良知を悟る


致良知を悟る

1520年、王陽明49才の時、ついに「良知=良心」が学問の大本領であることを悟り「致良知説」を唱えるに至った。38才で知行合一論にたどり着いた陽明だったが、陽明学のもう一つの柱「致良知」にたどり着くにはさらに10年という月日を必要とした。

ではこの「致良知」とは?
陽明は「良知」のことを「古来の聖人たちが相伝えた血脈とし、かつ何人にも生まれつき備わっている普遍的なものである」と言った、さらに「この良知に従えば、物の真偽・是非・善悪は即座に判別せられ、私利私欲の一念も、焼けた炉の中に雪を投じたときのように一瞬に解消し、善を好み悪を憎んで、すべて天理に基づく行をすることができるようになる」と門人達に語った。

門人の郷東郭(すうとうかく)への手紙なのかでは
「・・・今、多くの苦難を嘗めてから、物事の判断には良知だけで十分であることを知りました。たとえてみますと、良知は、舟の舵のようなもので、舵があると、浅瀬でも舟を自由に操れるし、逆巻く怒濤の中でも、舵を手にしておれば、舟が沈没して溺れるような心配はないのであります。」と書いている。
さらに陽明は「人は誰でも生まれつき聖人と同じ良知を備えている」と唱えた。
当時、直接陽明の演説に接した者は感奮興起、聖人の学に志す者は強い自信を得た。

良知」こそが陽明が朱子学について抱いていた疑問を解決する決定的な物だった
朱子学のように物の理をそのものの中に求めると、心で心を求めるようになって混乱に陥る、むしろ心外の物についてこれを求めた方が確かである。しかも物の理は無限にあるから、朱子のようなやり方では、一生涯かかっても、理は究めきれない」

全く新しい価値観はどの世界、どの時代においても最初は異端視される、「陽明学」も同様、従来の朱子学者から激しい批判を浴びた。当初は陽明も朱子学から一歩引いた姿勢をとり、直接朱子学と対決することはさけていた、しかし「致良知説」を唱え始めた時期からは堂々と朱子学を批判するようなった。当時の中国「明代」において陽明学の直感的で情感的な説は大いに受け入れられ大流行した。

しかし、この「良知」こそ陽明学の功罪の最たる物であるといえる。「良知」について聞いた物は、「人は誰でも生まれつき聖人と同じ良知を備えている」という言葉に感化され、「良知」とは至極易簡なものと思い切実な修行もせずに安易に「良知」と唱える物が出てきた。歴史を見ても良知の域に達していないものが「勘違い」によって英雄を気取り、かえって良民を戦に巻き込んだ例はいくらでも見つかる。

陽明の考える「良知」を発揮するためには切実な修行から悟る必要があり、安易な思いこみをさけるため、陽明は「良知」の前に「到る」という一文字を加え「到良知」とし、修行の重要性を示した。

1521年、50才のとき、陽明は震濠の乱の平定の功によって、新建伯に封ぜられた。その後は門人達の教化につとめる日々を過ごしていた。ところが1527年、56才のときまたもや広西省の賊の討伐を命ぜられた。陽明の体は既にボロボロで「その任務にはとても堪えられない」と辞退するものの許されず、その年の9月、やむなく遠征に出発した、ここでもいつもと同じく説得から入り、それでも聞かぬ賊に対しては実力で討伐、翌年7月には任務を完了した。

しかし、遠征の地の激務は陽明の体を確実にむしばんでいった。病気療養のため、朝廷に帰郷を許可してもらうよう奏請するも8月には病状はますます悪化、しかたなく朝廷の許可がないまま帰郷の途に着いた。

11月29日、故郷への帰郷中、南安の青竜鋪の船上で門人の周積に、「此の心光明、亦復(また)何をか言わん」という言葉を残し、永遠の眠りについたと伝えられている。