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大塩平八郎の乱


大塩平八郎の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、江戸時代の1837年に、大坂(大阪府)で町奉行所元与力大塩平八郎と門人らが起こした江戸幕府に対する民乱である。

前年1836年の天保の大飢饉により、大坂にも米不足が起こり、これに幕府の大坂東町奉行与力であり陽明学者でもある大塩は奉行所に民衆の救援を直訴したが拒否され、自らの蔵書を全て売却するなどして得た資金を持って救済に当たっていた。

そのような中で大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の弟)は大坂を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍 徳川家慶就任の儀式のため江戸へ送っていた。 更に米の買い占めを図っていた豪商に対しての怒りも募り、1830年に与力を辞職した平八郎は大砲などの火器や焙烙玉を整え、一揆制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

決起直前に内部に離反者が出たために準備の整わぬままに2月19日の朝、屋敷に火をかけ決起した。現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、奉行所の兵に半日で鎮圧され、大塩は40日余り潜伏した後に大坂に舞い戻ったが、逃げ込んだ先の美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町にあった)に出入りする奉公人から大坂城代土井利位に通報され、火薬を使って自決した。

大塩の挙兵は失敗に終わったものの幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、江戸幕府の要人達に、また幕政に不満を持つ民衆達に大きな衝撃を与えた。 この乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。 また大塩の檄文は幕府の取締りをかいくぐって写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。