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上杉鷹山との比較


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上杉鷹山との比較

上杉鷹山とは財政の破綻した米沢藩の大改革を成し遂げた人物として、現在でも高い知名度を誇る、ケネディ大統領が尊敬する日本人のひとりとして名前を挙げた事でも有名だ。

藩政改革を成し遂げた人物としてたびたび方谷と比較されるが、ここでもお約束通り比較してみよう。

鷹山の藩政改革

当時(1700年代後半)米沢藩一五万石は約二〇万両の負債を抱えていた、そんな大借金藩に高鍋藩三万石から養子として迎えられたのが鷹山だった。
鷹山は藩士や百姓にまで藩の実状を広く伝え、改革の協力要請をもとめた。
激しい節約令を敷き、農商業の改革として新しい農産物の開発、米沢織の開発などに努めた。

しかし、遅々として進まない改革と厳しい倹約令は藩士藩民はもとより、鷹山自身の精神力をもすり減らしてゆく。

そんな中、歴史に残るクーデターである「七家騒動」が起きる。鷹山はこの騒動の主犯格である二人を切腹、五人を隠居閉門の上、禄高半減という厳しい処分を言い渡す。それまで婿養子と鷹山をなめていた藩士達もこの事件により戦慄を覚えることとなった。

しかしまた事件は起こる、鷹山の腹心中の腹心「竹俣当綱」が確信犯とも思えるらんちき騒ぎを起こし座敷牢入りとなる。

天明3年、世に言う「天明の大飢饉」が発生、改革中の米沢藩もまた例外なく6年にかけて大凶作が続いた、ひとりとして餓死者を出すまいとする上杉鷹山は親戚関係にある尾張藩から3千俵の米を借用するなどの対策をほどこすが、それでも藩全体で約2%の餓死や離散者がでたという。(全国平均の餓死者&離散者は平均で藩の5%前後だったというから上杉鷹山の努力が現れている。)

鷹山は身も心もぼろぼろに疲れ果てたのだろう、天明5年(1785年)、鷹山35歳の時、改革半ばにして彼は後身の上杉治広に藩主の座を譲り隠居の身となる。

新藩主治広もまた、米沢藩の藩政改革に邁進するが改革はいっこうにすすまない、半紙の少ない給料はさらに減らされ、債権者は借金を踏み倒される、「もうどうにもならない」という絶望的な人々の思いはもはや改革派も保守派もなく、鷹山の再登板への望みとなっていった。

天明8年、鷹山は藩主治広の後見人として藩政の舞台に帰ってきた、再び改革の旗手となるや竹俣当綱の直系である莅戸九郎兵衛を実務面のリーダーに据え早速債権者との交渉が始まった。

莅戸九郎兵衛は債権者に対し、「無利息50年月賦にて返済する、借りたものは必ず返す、信じてくれなければここで腹を切る」と迫った、何とか返してもらいたい豪商達も渋々この提案をのんだという。

何とか借金の月賦返済を豪商谷に認めさせた莅戸九郎兵衛は藩の借金をすべて返済し、蓄財をするための16年計画を発足、厳しい倹約と竹俣当綱が体を張って作った先行投資である新規産業が芽を出してくる。

その後、天保の大飢饉が米沢藩を襲うが、このときは正真正銘ひとりの餓死者も出すことなく、この飢饉を乗り切った。

文政5年(1822年)鷹山は72歳にして死去、藩政改革半ばでの老死だった。この時点では米沢藩の借金はまだまだ残っていた。米沢藩がすべての借金を返済し終え、5千両の蓄財を果たしたのは1867年、大政奉還の年だった。