トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

上杉鷹山


江戸時代の代表的な財政改革の比較

上杉鷹山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%B7%B9%E5%B1%B1

上杉 鷹山(うえすぎ ようざん、 宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日))は江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第9代藩主。位階は従四位下、官職は弾正大弼・侍従。
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)であるが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名である。

経歴

日向国高鍋藩主・秋月種美の次男として、高鍋藩江戸屋敷で生まれる。 母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であったことが縁で、10歳で第8代藩主重定の養子となる。米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する。1768年(明和4年)に米沢藩を継ぐ。

民政家で、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

1785年(天明5年)に家督を前藩主・重定の実子である治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。1822年に死去、享年71。法名:元徳院殿聖翁文心大居士  墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。

官職位階履歴

1766年(明和3) 従四位下弾正大弼
1767年(明和4) 家督相続。ついで、侍従兼任
1785年(天明5) 隠居。越前守に遷任。侍従如元。

伝国の辞

伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。

内容は下記の通り。

一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有るまじく候事
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。

人物について

正室である前藩主の長女幸姫は脳障害、発育障害があったといわれている。彼女は短い生涯であったが、2人は仲睦まじく暮らした。しかし後継者が絶えることを恐れた重役達の勧めで治憲より10才年上の側室お豊の方を迎えた。

ウィキクォートに上杉鷹山に関する引用句集があります。有名な「為せば成る」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた。

また、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げている(その問いをケネディやクリントンに発した記者は、上杉鷹山の名前を知らなかったとの逸話も残されている)。

改革について

鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダとして、産業振興に重きを置いた前期の改革と 前期の改革後の隠居から復帰した莅戸善政をリーダとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。