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原田亀太郎


原田亀太郎
【はらだかめたろう】

はらだかめたろう原田亀太郎
1838・8・15〜1864・7・19(天保9〜元治1)

高梁市出身
勤王の志士。名は広。通称ははじめ亀太郎、一作とも称す。煙草商原田市十郎の長男として備中松山城下に生まれる。幼時から読書を好み、はじめ藩儒進鴻渓に学び、1854年(安政1)江戸に出て岸淵蔵に入門。ついで備中倉敷に在住の森田節斎に学び、大義名分に通じた。

藩主板倉勝静にその才能を愛され、抜擢されて藩士に取り立てられたが、尊皇撰夷の志を遂げるため、翌年辞して和泉(現大阪府南部)に行き谷三山の門に入り、かたわら剣を広瀬季忠に学んだ。また、京坂の間を漫遊し、懐慨(こうがい)国事を談じ、深く勤王の志士と結んだ(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。

'63年(文久3)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。こうした情勢の中で、中山忠光を擁した天言朱組の義挙に勇躍して参加したが、8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから政情は一変し、追討諸藩の攻撃を受けることになった。逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが小俣で和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれた。禁門の変のさなかの'64年(元治1)7月19日、同囚32人とともに斬に処せられた(『維新史』)。刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。

-幕末辞典-