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京都遊学の結果は?


23才の方谷は、藩の奨学金を得て学問所に出入りすることを許されたとはいえ、油の商いで家族の生活を支えなければならない百姓の身分でした。
その方谷が自ら決意した1度目の京都への遊学は、師匠丸川松隠からの宿題「儒学の根源とは何か」という命題を探求するための旅でもありました。
京都での方谷は、寺島白鹿のもとで朱子学を学ぶ一方、儒学の神髄を求め仏教の座禅にも挑戦しましたが、命題については得るものがないまま半年後に帰国します。
2年後、25才の方谷は再び京都に遊学します。
この2度目の遊学で、方谷は空理空論を重ねて儒教の淵源にたどり着くことの無意味を悟り、博覧強記を誇るだけの多くの儒者の道と決別し、実務をこなす自己の信念を確立するための学問を目指すことを決意して半年後に帰国しました。
帰国後の方谷は藩主板倉勝職より名字帯刀を許され、八人扶持の禄を得て松山藩校有終館の会頭を命じられます。
27才の方谷は松山藩士として3度目の京都遊学を許可され、三度寺島白鹿の下で朱子学を学びました。
朱子学に対する懐疑と不信が増す中、方谷は当時の朱子学で危険思想とされていた陽明学に出会い、深く傾倒してゆきます。
このことが師匠白鹿との対立を招きますが、陽明学は方谷の一生を通じた指針となります。
2年半後、29才の方谷は故郷松山に帰国することなく次なる江戸遊学に旅立ちました。

writer 尾関厨斎