トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

久坂玄瑞


久坂玄瑞
【くさかげんずい】

天保十一年(1840)〜元治元年(1864)

玄瑞は天保11年(1840年)萩に藩医久坂良迪の次男として生まれる。幼名は秀三郎。13才のときに母を、14才で兄と父を亡くす。そのため14才で家督を継ぎ、字を玄瑞と改めた。

安政3年から日本各地を遊学、5年には松山藩も訪れる。同年吉田松陰松下村塾に入学。松下村塾最初の入門者で、幼なじみの高杉晋作と「松門の双璧」と称され、松陰からも「長州第一の人物」と高く評価された。

藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させ、イギリス公使館焼き討ち事件・下関の外国船砲撃などに参加し、奇兵隊の元となる光明寺党を結成する。

八・一八の政変では尊攘派七卿を伴い都落ちする。禁門の変では指揮をしていたが、鉄砲で打たれ負傷しもはやこれまでと自刃する。

-幕末辞典-