トップ 差分 一覧 ソース 検索 ヘルプ PDF RSS ログイン

改革前の松山藩の財政状況は?


改革前の松山藩の財政状況は?

江戸時代の藩の経済力は、その土地でとれる米の量(年貢米の量)によって表された。
単位は「石(こく)」、この経済指標を現在に置き換えると、国ならば税収の総額、企業ならば総売上高といったところとなる。そして、備中松山藩の場合公称5万石であった。

しかし、当時の松山藩の過去3年間の年貢米の平均は19300石、なんと実際の税収は公称高の半分にも満たないというのが実態だった。メンツを非常に重んじる時代だけに、石高を今更実質ベースに戻すことなど考えられず、松山藩はずるずると借金を繰り返していた。

さらに方谷が調べ上げた詳細では、藩士や領民への渡し米(給与)が約6千石、残りの米を銀に替えると、約1万9千両、そのうち江戸の松山藩藩邸の維持費が1万4千両、藩主の生活費が3千両、大阪・京都でかかる経費が約千両、締めて1万8千両で、残り雑費を考えると税収は必要経費のみで吹っ飛んでしまう。

そして、最も方谷の頭を悩ませたのが、10万両にも及ぶ借入金である。国家予算の5倍以上の借金をしている国がまともに運営できるバズもなく、毎年利子だけでも9千両が必要だった。

粉飾決算に塗り固められた備中松山藩の財政は実質的には破綻寸前だった。