!!!方谷は何故大抜擢された? いくら有能な学者であっても、方谷は元農民である。封建社会の江戸時代にあって、勝静の行ったこの人事は通常では理解できないようない「異常な人事」だった。 元締役兼吟味役という藩の中でも中枢をになうような常用ポストに元百姓が就くと言うことは、当然既存の藩士らの怒りを買うこととなる。それでも、板倉勝静にとっては方谷の力が必要だった。 方谷の元締役兼吟味役就任時、藩内に広く流れた狂歌が今に伝わる  ・山だし(山田氏)が 何のお役にたつものか へ(子)曰はくのやうな元締  ・御勝手に孔子孟子を引き入れてなほこのうへに唐(空)にするのか 勝静は松平定信の孫であり徳川の血を濃く引く人物で、徳川系統に生まれたからには幕府への参画は至上命題である。しかるに養子元の松山藩は、「籠かきもいやがる」というほどの貧乏藩で幕府参画処か明日の藩運営ですら危ない状態だった。このような状態にあって、勝静としてはどんな手を使ってでも藩の財政を立て直す必要があった。 そしてもう一点、このような大抜擢が出来た要因として、板倉勝静が養子であり、松山藩生え抜きのお殿様ではないことがあげられる。上杉鷹山がそうであったように、養子の場合、地元とのしがらみが希薄なため、かなり自分本位に立った人事が可能であった。 自分の教育係として方谷の実力は痛いほど知っている勝静にとって、方谷の元締役兼吟味役は必然だったといえる。