旧中井村は、はじめ備中国英賀郡(阿賀郡)中井郷といわれ、今の上中津井・下中津井と同じ津々・西方でした。また中世には中津井荘という荘園でした。近世になると津々村、西方村に分かれ、中井郷と呼ばれていました。 文治2年(1189)、山田駿河守重英が戦功をたて、英賀郡28ヵ村を源範頼から与えられ、中津井村の佐井田城主としてこの地を支配、その後天文2年(1533)には松山城主・庄氏が治め、永禄3年(1560)には三村家親が庄氏に変わり支配しましたが、三村氏が滅びると毛利氏の武将の庄信資の領地となり、津々加賀守を津々村の加葉山城主として、この地を管轄しました。 江戸時代になると徳川幕府直轄地となり、小堀氏が支配したのち、池田氏から寛永19年(1642)水谷氏の支配となり、その後歴代松山藩主の支配を受けました。津々村は元禄7年(1694)に幕府直轄領となり、延享元年(1744)板倉氏が藩主となってから西方、津々両村とも松山藩となって明治時代を迎えました。明治時代には一時倉敷県、明治4年(1871)深津県、そして小田県となり、明治8年に岡山県となりました。 そして明治22年津々村と西方村を合併して中井村となり、明治33年には上房郡中井村。昭和30年高梁市中井町となって現在に至ります。