米百俵の由来 【こめひゃっぴょうのゆらい】 幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。 長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説『峠』で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。 幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、『興学私議』という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。 明治2年(1869)5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。 翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。 しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、大和デパート長岡店の位置)に開校した。 国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。 東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。 この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。 ---- この国漢学校創立時の故事をもとに、文豪・故山本有三氏が戯曲として書き下ろしたのが『米百俵』である。この戯曲は、虎三郎に関する詳細な研究と合わせて一冊の本にまとめられ、昭和18年(1943)に新潮社から出版された。 山本有三の戯曲『米百俵』の中で、虎三郎は「早く、米を分けろ」といきり立つ藩士たちに向かってこう語りかける。 「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」 教育と反戦の思想で裏打ちされた戯曲『米百俵』は大ベストセラーとなったが、時代は軍部の支配下にあり、反戦戯曲だと強い弾圧を受けて絶版となり、自主回収の憂き目を見た。 それから約30年後の昭和50年(1975)、長岡市が『米百俵 小林虎三郎の思想』を復刻出版すると、大きな反響を呼んだ。また、昭和54年(1979)と平成13年の2度にわたり歌舞伎座で上演され、多くの人々に感銘を与えた。 米百俵が来る 虎三郎が弟雄七郎にあてた手紙には、「長岡藩は極度に窮迫し、士族の中でも日に三度の粥すらすすることのできない者がいる」とある。 こうした状況の中で、明治3年(1870)5月、長岡藩の支藩である三根山藩(現西蒲原郡巻町)の士族たちから長岡藩士族へ見舞いとして米百俵が贈られてきた。米百俵は当時の相場でおよそ金270両前後。そば一杯がおよそ24文、金1両は約10,000文であったので、いかに大きな贈り物であったかがわかる。 長岡市ホームページより引用 -幕末辞典-