17才の結婚後、21才のとき備中松山藩から二人扶持を供され、22才のとき長女瑳奇が生まれました。この頃までの夫婦仲はどこにでもいるふつうの夫婦だったのではないでしょうか。 しかし、この夫婦関係は最終的にはうまくは行きませんでした 方谷の妻・進の不幸は夫が「山田方谷」だったというよりありません。 方谷は瑳奇が生まれた翌年には京都に遊学に向かうことを決意します。 いくら松山藩校有終館で学問が出来るとはいえ、丸川松隠のもとでみっちりと朱子学を学んできた方谷にとって、藩校有終館での学問はまるで物足りない物でした。 「家業や家族」と「学問を究め天下のために役立つ」という二つの思いの間で揺れる方谷は丸川に相談し、断腸の思いで京都行きを決心します。 大変なのは残された進です。一歳の乳飲み子と12才の義弟平人、継母の近の面倒を一人で見なくてはならない状況に陥ります。さらに藩から二人扶持の給与が出るとはいえ製油業の仕事の過酷さは変わりません、その上当時の旅は今と違い、夫がいつ死んでもおかしくありません。 方谷の「京都に行きたい」という決意を聞きいたとき、進は内心相当に不安を抱えたに違いありません。 そして進の苦労は之では終わりません、方谷の京都遊学は初回は半年ほどの物でしたが、一年おいた1829年には再び京都に半年間の遊学、さらに翌年には夫は丸川松隠と共に一ヶ月お伊勢参りに出かけています。 残された方はたまった物ではありません。 方谷が丸川松隠とお伊勢参りに出かけた1830年6月、方谷は藩から城下本丁に邸宅を賜わりました。しかし翌年2月10日、この邸宅から出火、ちょうど方谷が郷里の西方村に出かけているタイミングでした。 この火事には「進が方谷を京都にやるまいと、進が自ら火を放った。」という説が語り継がれています。 この頃から、進は精神的不安定に陥っており、それでも京都・江戸へと遊学を繰り返す方谷に対し恨みが募っていったのでしょう。そして、進の不幸を決定づける出来事が起ってしまいます。 1836年、火事から6年後、江戸に遊学に出ていた方谷に悲報が入ります。 「娘・瑳奇僅か11才にしてこの世を去った。」という連絡でした。 進は唯一の心のよりどころを失ってしまいました。 その後の二人の関係は言うに及ばず、すれ違いの月日がつづき、二人が離婚したのは11年後の1847年、方谷43歳の時でした。