!!!松山藩士になれたのは何故? 文政8年、方谷21歳の時、方谷は村長を通じて藩に呼び出されました。そして、一通の沙汰書が与えられました。その内容は「あなたは農商の身ながら、日々学問を心がけているという話を聞いた、藩としては君をバックアップし給与を与えることとした、今後は藩校の有終館で学問をすることを許可するので、引きつづき学問に精を出し、藩の御用の際はその知恵を絞るように」という物でした。 このときの松山藩の藩主は板倉勝職(いたくらかつつね)といいました。当時の松山藩は「貧乏板倉」と嘲笑され、籠かきもいやがると揶揄されるほど財政が悪い状態でした、にもかかわらず藩主勝職は酒乱の上女遊びも激しく、政治に対しても優柔不断であったと伝えられています。 実際のところ、勝職の政治的手腕は十人並みであったのかもしれません、しかし、藩の未来に対する熱い思いは、勝職の方谷に対する扱いから読み取れます。 勝職は農民出身の方谷に対し、3度の京都遊学や江戸遊学と簡単に許可し、さらに徳川の血筋である勝静を養子に迎えた後も、武士ではなく方谷を教育係に据えました。 勝職は何とかしてこの財政難を立て直し、そして藩と藩民に安定した生活を送らせるため、優秀な人材の発掘に努め、これと見込んだ男に未来のすべてを託すという決断をした人でした。その、人を見る目は確かだったようで、方谷を見いだし、勝静を養子に迎え、松山藩を黒字に導きました。 方谷が松山藩藩士になれたすべての始まりは、この板倉勝職の藩の未来への思いが原点でした。