山田方谷 【やまだほうこく】 山田方谷は、文化二年、阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)の農商の家に生まれきゅうた。名は球、通称は安五郎で、方谷というのは号である。五歳の時から新見藩儒者丸川松陰のもとで朱子学を学び、神童と言われていたとのことである。両親の死によってやむなく家業の製油業を継ぐが、そのかたわら学業にも励かつつねむ。その様子が藩主板倉勝職の目に留まり、文政八(一八二五)年、二人扶持を与えられ、藩校有終館の会頭となる。江戸遊学後は朱子学から陽明学に転じ、陽明学者熊沢蕃山に多大な影響を受けた。嘉永二(一八四九)年、勝静が藩主となると共に元締役兼吟味役に抜擢され、ついに藩政の表舞台に立つことになる。そして、方谷の手腕によって、松山藩は、負債十万両を返済したのみならず、さらに十万両の余財をみるに至ったのである。 ---- 山田方谷は幕末の備中松山藩の首相だった人で、当時破綻寸前だった松山藩を奇跡的な改革で立て直し、10万両の借金をたった8年間で10万両の貯金に替えた人物です。 ここまではよく言われていることですが、山田方谷の神髄はこれだけにとどまりません、改革終了後、世は幕末の動乱期で、松山藩の藩主である板倉勝静は江戸幕府の筆頭老中で徳川慶喜につぐナンバー2という地位にありました。しかしご存じの通り江戸幕府は崩壊し松山藩は賊軍として薩長や備前の軍勢に取り囲まれました。 この難局を乗り切ったのも実は方谷の指揮によるところが大きく、松山藩は四面楚歌・絶体絶命のピンチを一人の戦死者も一軒の民家を焼くこともなく乗り切り、備中松山城の無血開城をなしえました。 山田方谷という人は、どんな局面でも、どんな偉い地位につこうとも、必ず藩民のことを第一に考え、当時の武士のメンツや意地よりも、藩民の命と利益を優先しました。 方谷は封建社会の江戸時代であっても、現在でも事あることに言われている「国や藩主は人民のためにある」という考えを行動として貫いた人でした。 方谷に関しては多くの著名人にも信奉者が多いのも特筆すべき一つです。 小説家の司馬遼太郎は方谷を評し「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えていた」と言っていますし、福田元首相や大平元首相の政治顧問で「平成」という年号の生みの親としても知られる安岡正篤は「古代の聖賢は別として、近年の偉人といえば、わたしはまず山田方谷を想起する」と評しています。 また少し前ですが国会でも衆議院議員の西村眞悟氏が内閣委員会で小泉総理に方谷について訪ねたところ、総理は「山田方谷の話は、私も書物で読んだことがございます。今の時点におきましても、山田方谷の考え方というのは、大いに参考すべき点、多々あると思っております。」と答えておられます。郷土の偉人は数多いですが、内閣で話に上る偉人となるとそういる者では在りません。 議員さんについてはこの衆議院議員の西村眞悟氏の他にも多くの議員の方々が方谷についていろいろなところで取り上げています。ざっとあげますと前文部科学副大臣の小野晋也氏、衆議院議員 熊代昭彦氏、前衆議院議員しぶたに修氏、高梁方谷会会長の大杉尚久氏を筆頭に岡山県の県会議員、各市市長さん、市議会議員の皆様などなど、インターネットで検索しただけでも岡山を始め日本中の自治体で山田方谷に学べと言う機運が高まっています。 また政界から財界や芸能界に目を移しても状況は似たような感じです。 6月に高梁で講演会を行われる全日空会長の大橋洋治氏は代表的な方谷応援団ですが、元ニュースキャスターの櫻井よしこさんや檜原敏郎元近鉄百貨店会長(故人)、樋口公啓 (社)日本経済団体連合会副会長などおおくの方谷信奉者が日本の各要所で活躍されています。