!!江戸時代の代表的な財政改革の比較 !!!恩田木工 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索 恩田民親(おんだ たみちか、享保2年(1717年) - 宝暦12年1月6日(1762年1月30日))は江戸時代中期の松代藩家老。通称・恩田木工(おんだ もく、杢とも記される)として知られる。 !!経歴 松代藩家老として1千石を知行する恩田民清の長男として、松代(現・長野県長野市松代町)に生まれる。幼名は佐吉。 享保20年(1735年)家督を相続。延享3年(1746年)家老となる。 松代藩の財政は3代藩主真田幸道の時代より徐々に困窮し、民親が家督を相続した頃にはかなりの財政難に陥っていた。寛保2年(1742年)には松代城下を襲う大水害に見舞われ、復旧のため幕府より1万両の借財を受けた。そこで、5代藩主真田信安は小姓より登用した原八郎五郎を家老に抜擢し藩政改革に当たらせた。原は享保14年(1729年)より始まっていた家臣の知行・俸禄の半知借上を踏襲し、更に、領民より翌年・翌々年分の年貢を前納させるという藩政改革を実行した。しかしこれが家臣の反発を招き、延享元年(1744年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。 宝暦元年(1751年)には原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村は同年に失脚した。 原や田村の時代、贈賄を行った者には納税が目こぼしされたり、商人からの寄付の一部を横領するなどの汚職が横行した。彼らはこれにより失脚したのだが、汚職の横行により藩内の風紀は乱れていた。 宝暦2年(1752年)信安の死により藩主となった真田幸弘により、宝暦7年(1757年)民親は「勝手方御用兼帯」に任ぜられ藩政の改革を任された。藩政自体は概ね原八郎五郎の政策を踏襲し、多少の手直しを加えたに過ぎない。しかし、質素倹約を励行し、贈収賄を禁止、不公正な民政の防止など前藩主時代に弛んだ綱紀の粛正に取り組んだ。また、宝暦8年(1758年)藩校「文学館」を開き文武の鍛錬を奨励した。政策自体は平凡なものであり、逼迫した藩財政自体は到底改善しなかった。しかし、民親の取り組んだ公正な政治姿勢や文武の奨励は、藩士・領民の意識を改革した。 宝暦12年(1762年)正月、病を得て死去。享年46。彼の意思は、藩主幸弘や、民親の妻の弟である望月治部左衛門により受け継がれた。 後世の松代藩士馬場正方により書かれたとされる『日暮硯』は、半知借上を廃止したなどと民親の仁政を讃えた著書である。しかし、半知借上は民親の時代はもちろん後世まで続いており、この著書の内容には事実もあろうが脚色も多い。だが、この様な著書が出版されたこと自体、民親が少なからず善政を行った証と言えよう。 !!参考文献 日暮硯(岩波文庫) 真田騒動-恩田木工(池波正太郎:著 新潮文庫) 誠心の指導者 恩田木工(川村真二:著 PHP研究所) "http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E7%94%B0%E6%B0%91%E8%A6%AA" より作成