越後長岡の河井継之助を描いた「峠」のなかで、司馬遼太郎は次のように書いています。 「めずらしい駅でございますよ」  と、筆者が訪ねたとき、駅長さんがストーブのそばで語ってくれた。 「駅のそばに村がありません。こんな駅は全国でもまれだとおもいます」 「なぜ、駅ができたのですか」 「地元の請願の結果でございますよ」  この駅が、いわばこの付近の山家や山村の玄関になるのであろう。  ━━玄関口に村がなくても玄関は玄関です。駅ができればどれだけ山里が文明の利に浴しますか。  というのが、請願の理由であった。  駅名を、 「伯備線方谷駅」  という。いかに方谷がここに居たからといって人名を駅名にする例はない。日本ではここだけであるという。この駅名も、地元の請願であった。鉄道省は当然反対した。  ━━人名は駅名にならない。  というのが、その理由であった。しかし地元は大いに運動した。山田方谷という学者がいかに偉大であったかということを説いたが鉄道省ではその名を知らなかった。  地元では、  ━━三島中州  という名をもち出した。この人物はすでに大正八年、九十歳で死亡していたが、盛名は昭和に入っても全国に知られていた。維新後の漢学会の巨星であり、大正天皇の侍講であり、宮中顧問官であった。  ━━その中州先生の先生が、山田方谷先生であります。  という説明で鉄道省も了解し、了解したが、先例は曲げられず「方谷は人名ではなく地名である」として命名された。 「谷間の駅でございますからね。太陽はわずかな時間昇っているだけでございます。冬は十時に陽が出て、二時すぎにはもう沈みます」  と駅長さんが言うような、そういう土地に方谷は住んでいた。 ---- writer 尾関厨斎