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  • 安政の五か国条約 - 1858年(安政5)、江戸幕府の大老井伊直弼が米・蘭・露・英・仏五か国と順次締結した通商条約の総称。箱館・兵庫・神奈川・長崎・新潟五港の開港を取り決めた。勅許を待たず調印したので安政の仮条約と呼ばれ、尊王攘夷(そんのうじようい)運動の激化を招いた。また、治外法権や関税自主権の面で将来に禍根を残す不平等条約であった。
  • 安政の大獄 - 1858年(安政5)から翌年にかけ、安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題に対して激化した尊王攘夷(そんのうじようい)運動派に対し、大老井伊直弼が行なった弾圧。連座者は公卿・志士百余名。吉田松陰・橋本左内ら八名が処刑された。
  • 井伊直弼 - その後、日米修好通商条約をはじめとする安政の五か国条約に、朝廷の勅許を得ないで調印を断行し、江戸幕府13代将軍家定の継嗣問題では、徳川慶福(よしとみ)を14代将軍に決定しました。また、この際、反対派であった一橋派・尊王攘夷派を弾圧(安政の大獄)するなど、辣腕をふるいました。安政5年(1858年)4月には大老に就任しましたが、万延元年(1860年)3月3日に江戸城桜田門外で水戸・薩摩藩浪士に暗殺され、46年の生涯を終えました。
  • 河井継之助関連本 - 序章 歴史現場から河井継之助の真実を探査するためには?/第1章 蒼龍雌伏(誕生―北国の城下町長岡に生まれ、多感な少年時代を過ごす/江戸遊学―大都会江戸に遊学し、後年の飛躍の糧とする/塵壺の旅―腰越台場を訪ね、海防の現状を知る ほか)/第2章 蒼龍飛騰(上洛―攘夷の嵐が渦巻く京都に上り、藩主の所司代辞任のために奔走/公用人就任―江戸藩邸内において、笠間藩主の牧野貞直を罵倒 ほか)/第3章 蒼龍激闘(小千谷会談―止戦のため慈眼寺に乗り込むが、嘆願書の受取りを拒絶される/榎峠奪還―要衝榎峠の奪還に成功し、初戦の勝利に酔う/激闘朝日山―要衝朝日山に押し寄せた新政府軍を撃破 ほか)/第4章 蒼龍非命(戦傷死―八十里越えの難所を担送され、会津塩沢村に死す/無言の帰還―河井の遺骨は、故郷の栄涼寺に葬られる)
  • 開国論 - 江戸末期、攘夷に反対し、鎖国を廃して欧米との外交関係を結ぶべしとした主張。
  • 久坂玄瑞 - 藩論を公武合体から尊皇攘夷に一変させ、イギリス公使館焼き討ち事件・下関の外国船砲撃などに参加し、奇兵隊の元となる光明寺党を結成する。
  • 原田亀太郎とは誰? - 8月13日大和行幸の詔が出されると中山忠光{なかやまただみつ 弘化2年4月13日(1845.5.18)−治元年11月15日(1864.12.13)}は「攘夷親征の奉迎」と称して同17日、吉村寅太郎らの同志を率いて京都を出奔、大和五条代官鈴木源内を誅戮して挙兵する。
  • 孝明天皇 - (1831-1866) 第一二一代天皇(在位 1847-1866)。名は統仁(おさひと)。仁孝天皇の皇子。激しい攘夷主義者であったが、倒幕運動には反対。妹、和宮の将軍家茂への降嫁に同意した。
  • 佐久間象山 - やがて弟子・吉田松陰は師匠・象山の「世界へ!」との志を受けて密航を試みるが失敗する。松陰に授けた詩により象山の密航援助が発覚し、9年もの幽閉生活を強いられる。赦免後には幕府や朝廷に働きかけ、開国へのレールを敷いたが、それが仇となり攘夷派に暗殺されてしまった。
  • 松下村塾 - 江戸末期、長州萩にあった私塾。吉田松陰が叔父より引き継ぎ、久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文など尊王攘夷(じようい)運動の志士を出した。
  • 新徴組 - 1863年、江戸幕府が京都警備のために結成した浪士団。上洛後間もなく、隊長格の清川八郎が尊皇攘夷を主張して近藤勇らを除く隊士を率い東下、清川が暗殺されて以後、再編され、幕府滅亡まで江戸市中で反幕活動の弾圧に携わった。
  • 尊王論 - 天皇を国家最高の権威として尊崇する思想。近世、儒教思想や復古神道思想に基づいて展開された。本来、幕府を否定するものではなかったが、開港以後攘夷論と結びついて反幕運動を支える政治思想へと転化した。
  • 尊王攘夷 - 尊王攘夷
  • 沢宣嘉 - (1835-1873) 幕末の攘夷派の公家。号、春川。文久三年(1863)8月18日の政変で長州藩に逃亡(七卿落ち)、生野の変に加わった。新政府では外国事務総監・外務卿などを歴任。
  • 天狗党 - 天保年間、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の藩制改革に伴い、下級藩士を主体に結成された改革派グループ。保守門閥派の諸生党と激しく対立。1864年、攘夷延期を不満として筑波山に挙兵、武田耕雲斎・藤田小四郎を主導者とする一派は、心事を一橋慶喜を通して朝聞に達すべく、上洛の途についたが、加賀藩に降伏。武田以下数百名は敦賀で斬刑に処せられた。その後も明治維新に至るまで藩政の主権をめぐって保守派と凄惨な争いが続いた。
  • 馬関戦争 - 1863年、長州藩は、攘夷を実行するため、他藩にさきがけ関門海峡を通る外国の船を2度(第1次・第2次)に渡り、砲撃しました。しかし、翌月、近代的な兵器を備えた列強の反撃にあい、長州藩は、あえなく敗れてしまいました。
  • 幕末辞典 - 攘夷
  • 木戸孝允 - 万延元(1860)年水戸藩の尊攘派である西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結び尊王攘夷運動に参加、次第に高杉晋作、久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていったが、その一方で勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも親交を持った。
  • 攘夷 - 攘夷
  • 攘夷論 - 攘夷論