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  • 寛政の改革 - 老中 松平定信が,1787〜1793(天明7〜寛政5)年に行った江戸幕府の政治改革。封建制がゆるんできた18世紀末,老中になった松平定信は,享保の改革を手本として幕府政治をたてなおそうとした。
  • 丸川松隠 - 漢学者。名は茂延、字は千秋、松隠はその号である。浅口郡西阿知村(現在倉敷市西阿知町)に生まれる。寛政元年(1789)大坂の中井竹山の門に入る。老中松平定信が竹山を介して召そうとしたが辞退する。寛政6年(1794)、新見藩主関長誠に招かれて藩学思誠館の督学教授となり、学制を改革し、学規を定めた。享和3年(1803)藩政に参与し、「型典」を著して藩政を改革した。門下生に山田方谷がいる。
  • 岩倉具視 - 関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始めた。安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参。朝廷での地位を築いた。
  • 軍艦奉行 - 1859年、海軍軍備強化のため設置された幕府の職名。初め若年寄の支配下にあって、軍艦の購入・建造・操練技術などをつかさどった。のち老中支配。
  • 最後の老中と藩士達 改革に挑戦する山田方谷 - 最後の老中と藩士達 改革に挑戦する山田方谷
  • 最初の師匠・丸川松隠ってどんな人物? - 丸川松隠は幕府昌平黌の学頭として知られる佐藤一斎と大坂の竹井竹山塾で肩を並べて学ぶ同門人で、この頃、老中・松平定信は優秀な才能を発掘して昌平黌の学官に登用しようと人材を捜していました。そこに浮き上がってきたのが他でもない丸川松隠でした。しかし丸川はこの老中直々の要請に対し「私は新見藩の人間であり、新見藩以外で養ってもらう気はない。」と竹井を通し断ってしまいました。
  • 坂下門外の変 - 1862年1月15日、水戸浪士を中心とする尊攘派が江戸城坂下門外に、老中安藤信正を襲い負傷させた事件。信正が公武合体論を唱え、和宮降嫁を実現させたことに憤激したもの。
  • 山田方谷 - ここまではよく言われていることですが、山田方谷の神髄はこれだけにとどまりません、改革終了後、世は幕末の動乱期で、松山藩の藩主である板倉勝静は江戸幕府の筆頭老中で徳川慶喜につぐナンバー2という地位にありました。しかしご存じの通り江戸幕府は崩壊し松山藩は賊軍として薩長や備前の軍勢に取り囲まれました。
  • 山田方谷 河井継之助が学んだ藩政改革の師 - 農民出身ながら、怒涛の時代に、幕政を担う老中の代行役として、備中松山藩(岡山県高梁市)を赤字から黒字経営に転換させ、藩政改革を見事に果たした山田方谷。改革成功の秘訣は何か?民の幸福を願い「人としての誠を貫く」生き方の中に見えてくるものは…。行財政改革に混迷する今の世におくる啓発の一書。
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  • 松代藩 - 幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
  • 松平定信 - 江戸後期の老中。陸奥(むつ)白河藩主。田安宗武の子。松平定邦の養子。号は楽翁。藩政に尽力、天明の飢饉(ききん)に藩内で餓死者を出さなかったという。田沼意次失脚後、老中となり寛政の改革を主導した。著「花月草紙」「宇下人言(うげのひとこと)」ほか。
  • 水野忠邦 - 江戸後期の老中。唐津藩主から浜松藩主に転じ、寺社奉行・大坂城代・京都所司代などを歴任。1834年老中となり、天保の改革を断行したが、失敗して退いた。
  • 川田甕江 - 方谷に学問を学んだ甕江は、すぐに頭角を著して門人としては新参ながら江戸藩邸の教授を任されて三島中洲とともに方谷門人の筆頭として扱われるようになった。だが、戊辰戦争では藩主板倉勝静が老中の一人として幕府軍に捕まったために備中松山藩は「朝敵」とされてしまう。甕江は藩兵を密かに備中に引き揚げさせる工作に行っていたが、岡山藩による備中松山占領の方が早く、岡山藩の要求によって藩兵の隊長であった重臣熊田怡が責任を取って切腹させる代わりに他の藩士の罪を免除させるという事になり、甕江が切腹の目付役を務める事になった。その後、方谷の命に従って江戸で出家させる予定であった板倉勝弼の藩主擁立、蝦夷地まで逃れた勝静の捜索などを行い、高齢の方谷に代わって三島中洲とともに藩の存続に尽力した。
  • 大塩平八郎の乱 - そのような中で大坂町奉行の跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)は大坂を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍 徳川家慶就任の儀式のため江戸へ送っていた。 更に米の買い占めを図っていた豪商に対しての怒りも募り、1830年に与力を辞職した平八郎は大砲などの火器や焙烙玉を整え、一揆制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。
  • 谷三兄弟 - 文久4年歴史に残る事件である「池田屋騒動」の起こる少し前、三男昌武は局長近藤勇の養子となる。時の老中板倉勝静が君主である備中松山藩の藩士であり、120石取りの武士である昌武を惚れ込んでのことであった。
  • 谷三兄弟とは? - 文久4年歴史に残る事件である「池田屋騒動」の起こる少し前、三男昌武は局長近藤勇の養子となる。時の老中板倉勝静が君主である備中松山藩の藩士であり、120石取りの武士である昌武を惚れ込んでのことであった。
  • 調所広郷 - 斉彬は幕府老中の阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。1848年、調所が江戸城に出仕した際に密貿易の証拠を突きつけられる。同年12月、江戸桜田の薩摩藩邸にて自殺、享年73。責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとしたためであるとも言われる。死因は自害、服毒とも。
  • 天保の改革 - 老中水野忠邦が,1841〜1843(天保12〜14年)に行った江戸幕府の政治改革。
  • 天明の飢饉 - 1782年(天明2)から87年の大飢饉。特に83年の浅間山の大噴火の影響が大きく、東北地方の被害が甚大であった。各地で一揆・打ちこわしが続発し、老中田沼意次の失脚を早めた。
  • 田沼意次 - (1719-1788) 江戸中期の幕臣。小姓から身をおこし、将軍家重・家治に仕えて栄進を重ね、1767年側用人、遠江(とおとうみ)相良藩主となる。72年老中となり、積極的な経済政策を展開、田沼時代を現出した。一方、物価が騰貴し、賄賂政治が横行したため、士民の攻撃を受け86年老中を退任。
  • 板倉勝静 - 幕末の老中、備中松山藩主。桑名藩主松平定永の第八子(松平楽翁の孫)。
  • 板倉勝静の就任した奏者番とはどんな役職? - 奏者番とは年始・五節句などに将軍に謁する大名の取り次ぎをしたり、御三家や大名から上意を伝えるために派遣された使いをつとめるための役職であり、幕府の要職につくための登竜門的な位置づけがあった。このころ幕府で出世するためにはまず「奏者番」となり、その中から選ばれる「寺社奉行」を兼務する、寺社奉行に任命されさえすればその後、「京都所司代」などを経て幕府の老中なれるとが通常の出世ルートであった。
  • 板倉勝静肖像画 - 板倉勝静(1823〜1889〕は嘉永2年(1849年〕7代目の備中松山藩主になりました。山出方谷を抜擢して藩政改革を成功させ.老中首座として幕府政治の中心で活躍したことは有名です。この肖像画はこうした勝静の姿が写実約に描かれでいます。束帯を着ており、衣装の模様など細部にわたって丁寧に描き込まれています。江戸時代以前の伝統的な肖像画のように平面的な描き方とはずいぶん異なっています。制作年は明らかになっていませんが.作者は平木政次(1859-1947)です。平木は幕末から明治にかけて.いち早く洋画を学んだ画家の一人でした。市には平木政次が摘いた勝静の肖像画がもう1点残されています、これは明治15年(1882年)の制作で同じように勝静の姿をよく伝えています。 2点とも市内の八重籠袖社に伝えられτいたものです。
  • 幕末辞典 - 老中
  • 老中 - 老中
  • 頌歌『山田方谷』 - 幕末切っての 名高い老中