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  • ことの外に立つ - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|
  • ケインズに先駆けた日本人−山田方谷外伝− - 山田方谷による奇蹟の藩政改革は、20世紀の天才ケインズの不況対策論に先立つ自作自演の革命だった。方谷革命の本質は、またそれを支えた同志達の生き方は。感動の力作「炎の陽明学」の著者が、再び熱筆を揮った方谷伝第二弾。
  • 安岡正篤 - 安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月13日)は、大阪市生まれの陽明学者。 昭和の碩学といわれ、昭和天皇をはじめ、幾多の政財界人に影響を与えた。 昭和天皇に従い、終戦の詔の草案に加筆し、、また元号の平成を考案したとされる。その一方で権力との密着ぶりを批判される事もあった。 池田勇人の派閥研究会「宏池会」の命名者でもある。
  • 炎の陽明学 山田方谷伝 - 炎の陽明学 山田方谷伝
  • 王学左派 - 陽明学の良知現成派。王畿(おうき)・李贄(りし)などが属する。経書を尊重し修養を重視する右派に対して、経書よりも人間の心に全幅の信頼を置いて情欲を肯定する。明末の思想界に大きな影響を与えた。
  • 王陽明 - (1472-1528) 中国、明代の儒学者。浙江省余姚(よよう)出身。名は守仁、字(あざな)は伯安、諡(おくりな)は文成公。陽明は号。朱子学に満足せず、心即理・知行合一(ちこうごういつ)・致良知を説き、陽明学を完成、実践倫理への道を開いた。また、寧王宸濠(しんごう)の乱を平定するなど軍事的才能もあった。著「王文成公全書」、語録「伝習録」がある。
  • 王陽明 抜本塞源論とは - 方谷や河井継之助を研究していると必ず耳にする学問、それが陽明学、激動の幕末の時代、彼らを突き動かした原動力になった思想であり、現代でも実践哲学といわれ多くの政治家などが日夜研究に励んでいる。
  • 王陽明、少年時代 - 王陽明と聞いてもほとんどの人は"誰?"と答えると思いる。また少し歴史や幕末に興味のある人ならば『知行合一』の陽明学を解いた人だよね、といった感じにとどまる、そういう私も、山田方谷が行動の根本とした学問(思想)である。ということは知っていても「陽明学」とはどんな学問で「王陽明」がどんな人物であったのか、ということは全く知らなかった。
  • 河井継之助関連本 - 忠誠か反逆か。激動の幕末にあって自らの良知(先天的な道徳知)を貫いた男がいた。西の東行(高杉晋作)に対し、東の蒼龍と呼ばれた長岡藩家老河井継之助である。戊辰北越戦争に散った陽明学徒の精神と行動の全貌。
  • 格物 - 〔大学「致レ知在レ格レ物。物レ格而后知至」より〕宋代以降の儒学で主体の陶冶方法として特に注目された概念。朱子学では「物にいたる」と読み、個々の事物の理を究明してその極に至ろうとすること。窮理。陽明学では「物をただす」と読み、対象に向かう心の働きを正しく発揮すること。
  • 擬対策 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|
  • 吉備発日本の古代史は変わる - 炎の陽明学・ケインズに先駆けた日本人などの著者、矢吹邦彦氏の新作書籍。山田方谷には直接関係ない本だが備中の国の古代史を深くえぐる一冊。是非一読を!
  • 京都遊学の結果は? - 朱子学に対する懐疑と不信が増す中、方谷は当時の朱子学で危険思想とされていた陽明学に出会い、深く傾倒してゆきます。
  • 京都遊学時の師匠は? - またその後生涯にわたり親交を結んだ春日潜庵と知り合ったのもこの頃です。春日は鈴木遺音の門下生でその後日本を代表する陽明学者の一人として数えられました。
  • 熊沢蕃山 - 1634(寛永11)岡山藩主池田光政に児小姓役として出仕。1639年(寛永16)池田家を致仕、近江国桐原の祖父の実家へ移居。1642年(寛永19)中江藤樹に陽明学を学ぶ。1645年(正保 2)再び光政に仕え、1647(正保4)側役、知行三百石。1649年(慶安2)光政に随行して江戸参府。1650年(慶安3)鉄砲組番頭、知行三千石。
  • 江戸遊学の師匠・佐藤一齋とはどんな人物? - 一斎は幕府の手前官学の朱子学を標榜しましたが、信じるところが陽明学であったことから仲間内では陽朱陰王の学風などと評され、その学識は陽明学においても当代一流で、「東の一斎、西の大塩」と称される第一人者でした。
  • 財政の巨人幕末の陽明学者・山田方谷 - 財政の巨人幕末の陽明学者・山田方谷
  • 山田家の家訓 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|
  • 山田方谷 - 山田方谷は、文化二年、阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)の農商の家に生まれきゅうた。名は球、通称は安五郎で、方谷というのは号である。五歳の時から新見藩儒者丸川松陰のもとで朱子学を学び、神童と言われていたとのことである。両親の死によってやむなく家業の製油業を継ぐが、そのかたわら学業にも励かつつねむ。その様子が藩主板倉勝職の目に留まり、文政八(一八二五)年、二人扶持を与えられ、藩校有終館の会頭となる。江戸遊学後は朱子学から陽明学に転じ、陽明学者熊沢蕃山に多大な影響を受けた。嘉永二(一八四九)年、勝静が藩主となると共に元締役兼吟味役に抜擢され、ついに藩政の表舞台に立つことになる。そして、方谷の手腕によって、松山藩は、負債十万両を返済したのみならず、さらに十万両の余財をみるに至ったのである。
  • 山田方谷(書籍) - 陽明学徒としての自覚についてほか)
  • 山田方谷に学ぶ財政改革 - 日本版「陽明学」)
  • 山田方谷に関する100の質問 - +方谷が陽明学を知ったきっかけは?
  • 山田方谷関連のおすすめ書籍 - !!!炎の陽明学 山田方谷伝
  • 春日潜庵 - 儒者。久我家の臣として、内大臣・久我建通(こがたけみち)に仕える。陽明学を学び広く東西の儒者と交流。京都における尊攘派の中心の一人として活躍したため安政の大獄で永押込に処せられた。
  • 上杉鷹山との比較 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|
  • 心即理 - 陽明学の主要命題の一。心と理(道徳的準則)とを二分して考えない陽明学で、心の本来のあり方が理に合致している、心を離れては理が存在しないという二つの観点から、心を理に合致せしめよ、心の外に理を求めるな、と主張したもの。
  • 新書漢文大系(22)〔新版〕伝習録 - 『伝習録』は近世最大の思想家、王陽明の言行録であり、陽明学の本質を著した基本書である。王陽明は、明の儒学を代表する人物で、心即理(心と道理は一つのものであること)・知行合一(知識と行いは一つのものであり、それによって道理に適うこと)・致良知(良知は人が生まれながらに持っている完全なもので、これを発揮すればすべての道理に適うこと)を唱えて空論を排除し徹底的実践を説いた。本書はそのエッセンスをまとめたものである。
  • 川田甕江 - 備中国浅口郡に生まれる。父は同国玉島の回船問屋であったが幼いうちに両親に先立たれて没落し辛い少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられる事となった。その時備中松山藩の執政であった陽明学者山田方谷が藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。甕江は備中松山が故郷に近い事に加えて、わずか数年で松山藩の財政再建を実現させた山田方谷の学識と手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩の半分の備中松山藩への仕官を決めたのである。安政4年(1857年)28歳の出来事であった(ちなみに甕江の仕官前に彼の評判を聞いた方谷は自分の力量を認めて弟子を江戸に送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。
  • 大塩平八郎 - 江戸後期の儒学者(陽明学者)。寛政5年に生まれる。号は中齋。はじめ江戸の林家に入門、朱子学を学んだが、のち陽明学に転向し、高い学徳を身につけた。27歳の時、大坂町奉行配下の与力から吟味役となり裁断に敏腕をふるった。
  • 大塩平八郎の乱 - 前年1836年の天保の大飢饉により、大坂にも米不足が起こり、これに幕府の大坂東町奉行与力であり陽明学者でもある大塩は奉行所に民衆の救援を直訴したが拒否され、自らの蔵書を全て売却するなどして得た資金を持って救済に当たっていた。
  • 知行合一 - 陽明学の実践重視の立場を示す説。朱子学の先知後行説が認識を実践よりも優先重視するのに対して、真の認識は実践を通じて獲得されるという見地から認識と実践を一致させる必要を説く。
  • 知行合一を悟る - 「物の理は心の外にあるのではない! 「理」は我が心の中にあるのだ!」と、それまでの陽明は、あくまで朱子学の考えに沿った思考をとっていたが、この時、遂に朱子学とたもとを分かつ「陽明学」が産声を上げた。翌年、陽明38歳のときには陽明学の基本的な思想である「知行合一説」の論を唱え陽明学は徐々その形を整えはじめた。
  • 知行合一説 - 陽明学の実践重視の立場を示す説。朱子学の先知後行説が認識を実践よりも優先重視するのに対して、真の認識は実践を通じて獲得されるという見地から認識と実践を一致させる必要を説く。
  • 致良知 - 陽明学の主要命題。人間の先天的道徳的知覚力・判断力を発揮せよという説。良知を致す。
  • 致良知を悟る - 1520年、王陽明49才の時、ついに「良知=良心」が学問の大本領であることを悟り「致良知説」を唱えるに至った。38才で知行合一論にたどり着いた陽明だったが、陽明学のもう一つの柱「致良知」にたどり着くにはさらに10年という月日を必要とした。
  • 中江藤樹 - (1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問答」を著す。晩年、王陽明の著書に接し、我が国陽明学の祖となる。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称された。門下に熊沢蕃山がいる。
  • 中国思想関連本 - 心中の賊を破るは難し。伝習録を読まずして王陽明の思想を知ることはできない。この書の理解のために、往年の陽明学の泰斗が身近に親しみ易く語った名著の復刻。
  • 伝習録 - 王陽明の語録および書簡集。三巻。1518年に門人の徐愛らが編集刊行。56年に銭徳洪が増補。陽明学の大綱をうかがうことができる。
  • 伝習録講話 - 心中の賊を破るは難し。伝習録を読まずして王陽明の思想を知ることはできない。この書の理解のために、往年の陽明学の泰斗が身近に親しみ易く語った名著の復刻。
  • - 幕末。陽明学を学んで激烈な行動力を身につけ、近代西欧思想にもいち早く通じ、越後長岡藩を近代的中立国家に仕立てようと企図した破天荒な男―。実力故に一介の武士から長岡藩の筆頭家老に抜擢。藩の命運を担って、維新史上最も壮絶な“北越戦争”を展開し、無念の夢を残して散った男―。最後の武士河井継之助の生涯。
  • 日本の陽明学者 - 日本の陽明学者
  • 板倉勝静 - 農商出身の陽明学者の山田方谷を抜擢して藩政改革を行って成功を収める。それが評価されて寺社奉行を務めたが、安政の大獄で井伊直弼の強圧すぎる処罰に反対して直弼の怒りを買い、罷免させられた。直弼死後の1862年、老中として復帰し、幕末の混乱する政局の安定化に努めた。生麦事件の賠償問題などから一時、老中職を罷免させられたこともあるが、程なくして老中として再任された。
  • 藩主板倉勝職ってどんな人物? - 参考文献:炎の陽明学
  • 方谷と佐久間象山 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|
  • 方谷の人間研究 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|
  • 方谷の陽明学 - 方谷の陽明学
  • 幕末辞典 - 陽明学
  • 無善無悪説 - 陽明学左派(王学左派)の唱えた学説。心の本性は善悪という道徳的分別を超越しているとする。明末における欲望肯定の理論的根拠となった。
  • 陽明学 - 陽明学
  • 陽明学とはどんな物? - 陽明学とはどんな物?
  • 理財論 - |ことの外に立つ|理財論|擬対策|方谷の陽明学|上杉鷹山との比較|方谷と佐久間象山|山田家の家訓|