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- 山田方谷 -
小説家の司馬遼太郎は方谷を評し「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えていた」と言っていますし、福田元首相や大平元首相の政治顧問で「平成」という年号の生みの親としても知られる安岡正篤は「古代の聖賢は別として、近年の偉人といえば、わたしはまず山田方谷を想起する」と評しています。
- 司馬遼太郎が山田方谷を評して言っていることは? -
小説家の司馬遼太郎は方谷を評し「木戸孝允より3倍ほど人間的に偉かった河井継之助が、日本で一番偉い人だと考えていた」と言っています
- 征韓論 -
1873年(明治6)、西郷隆盛・板垣退助らが朝鮮の排日的鎖国主義を名目として、これを討つことを主張した論。同年欧米視察から戻った岩倉具視・木戸孝允・大久保利通らは内治優先を唱えてこれを退けた。以後征韓派は下野し、士族反乱や自由民権運動を展開する。
- 川田甕江 -
山田方谷に対して尊敬の念を抱いていた木戸孝允は、甕江に方谷の出仕を要請するように依頼した。方谷の引退の意思は固く、木戸の期待には応えられなかったものの、太政官に出仕し大学小博士となり重野安繹とともに国史編纂の責任者になれるように推挙したのである。やがて国史編纂構想は太政官内における修史館設置(明治10年(1877年)1月)へと発展する。
- 幕末辞典 -
木戸孝允
- 木戸孝允 - 木戸孝允