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  • 塩谷宕陰 - (1809-1867) 江戸末期の儒者。名は世弘。江戸の人。水野忠邦に仕え、のち昌平黌の儒官。著「阿芙蓉彙聞」「籌海私議」などで海防を論じた。
  • 佐藤一斎 - 天保12年(1841)述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。
  • 最初の師匠・丸川松隠ってどんな人物? - 丸川松隠は幕府昌平黌の学頭として知られる佐藤一斎と大坂の竹井竹山塾で肩を並べて学ぶ同門人で、この頃、老中・松平定信は優秀な才能を発掘して昌平黌の学官に登用しようと人材を捜していました。そこに浮き上がってきたのが他でもない丸川松隠でした。しかし丸川はこの老中直々の要請に対し「私は新見藩の人間であり、新見藩以外で養ってもらう気はない。」と竹井を通し断ってしまいました。
  • 三島中洲 - 14歳で山田方谷に従学する。29歳のとき昌平黌に入り佐藤一斎に学ぶ。30歳で備中松山藩に仕官し、藩学有終館会頭となり、のち学頭に進む。文久元年(1861)藩学教授の傍ら家塾の虎口溪舎を小高下に起こし、明治初年最も隆盛を極め、学徒は十二藩に及び塾舎常に60〜70人を越す。
  • 昌平坂学問所 - ⇒昌平黌(しようへいこう)
  • 昌平黌 - 昌平黌
  • 松本奎堂 - (1831-1863) 幕末尊攘派の志士。三河刈谷藩士。通称、謙三郎。昌平黌(しようへいこう)に学ぶ。京都で藤本鉄石らと交友、1863年天誅組総裁となって大和五条に挙兵したが敗れ死亡。
  • 日本の陽明学者 - (1772-1859) 江戸後期の儒学者。美濃岩村藩家老の子。名は坦。別号、愛日楼。昌平黌(しようへいこう)の儒官となる。朱子学を講じたが、学説としては陽明学に拠(よ)り、渡辺崋山・佐久間象山・林鶴梁など多くの俊秀を輩出した。著「言志四録」「愛日楼文詩」など。
  • 幕末辞典 - 昌平黌