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  • 王陽明 - (1472-1528) 中国、明代の儒学者。浙江省余姚(よよう)出身。名は守仁、字(あざな)は伯安、諡(おくりな)は文成公。陽明は号。朱子学に満足せず、心即理・知行合一(ちこうごういつ)・致良知を説き、陽明学を完成、実践倫理への道を開いた。また、寧王宸濠(しんごう)の乱を平定するなど軍事的才能もあった。著「王文成公全書」、語録「伝習録」がある。
  • 王陽明、少年時代 - 子供の時から神童といわれていた陽明は、10代の前半から中国北部が他国より侵略されたりすることを憂い、自国の未来のため働きたいと切望していた。16歳で朱子学に目覚め、朱子のいう「一木一草にも理がある」という教えを実践するために、たまたま庭に生えていた竹を見て「草木にも理があるならば、この竹にも理があるはず、それを見極めるのだ。」と一週間不眠不休で竹を見続けた。
  • 荻生徂徠 - (1666-1728) 江戸中期の儒学者。江戸の人。名は双松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(しげのり)、通称は惣右衛門。徂徠は号。物部氏より出たので物(ぶつ)徂徠などと称する。初め朱子学を学んだが、のち古文辞学を唱え、古典主義に立って政治と文芸を重んずる儒学を説いた。柳沢吉保・徳川吉宗に重用された。著「弁道」「論語徴」「園随筆」「南留別志(なるべし)」「訳文筌蹄」など。
  • 格物 - 〔大学「致レ知在レ格レ物。物レ格而后知至」より〕宋代以降の儒学で主体の陶冶方法として特に注目された概念。朱子学では「物にいたる」と読み、個々の事物の理を究明してその極に至ろうとすること。窮理。陽明学では「物をただす」と読み、対象に向かう心の働きを正しく発揮すること。
  • 京都遊学の結果は? - 京都での方谷は、寺島白鹿のもとで朱子学を学ぶ一方、儒学の神髄を求め仏教の座禅にも挑戦しましたが、命題については得るものがないまま半年後に帰国します。
  • 京都遊学時の師匠は? - 京での方谷の最初の師匠は、恩師丸川松隠の旧友で儒学者の寺島白鹿(てらしまはくろく)でした。寺島白鹿は丹波出身の儒者で、今日で朱子学を教えていました。
  • 熊沢蕃山 - (『日本政治思想史講義録』1948年 131-133頁 第五章 朱子学的世界像の分解)
  • 江戸遊学の師匠・佐藤一齋とはどんな人物? - 一斎は幕府の手前官学の朱子学を標榜しましたが、信じるところが陽明学であったことから仲間内では陽朱陰王の学風などと評され、その学識は陽明学においても当代一流で、「東の一斎、西の大塩」と称される第一人者でした。
  • 佐藤一斎 - 34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい:岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。
  • 山田方谷 - 山田方谷は、文化二年、阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)の農商の家に生まれきゅうた。名は球、通称は安五郎で、方谷というのは号である。五歳の時から新見藩儒者丸川松陰のもとで朱子学を学び、神童と言われていたとのことである。両親の死によってやむなく家業の製油業を継ぐが、そのかたわら学業にも励かつつねむ。その様子が藩主板倉勝職の目に留まり、文政八(一八二五)年、二人扶持を与えられ、藩校有終館の会頭となる。江戸遊学後は朱子学から陽明学に転じ、陽明学者熊沢蕃山に多大な影響を受けた。嘉永二(一八四九)年、勝静が藩主となると共に元締役兼吟味役に抜擢され、ついに藩政の表舞台に立つことになる。そして、方谷の手腕によって、松山藩は、負債十万両を返済したのみならず、さらに十万両の余財をみるに至ったのである。
  • 朱子学 - 朱子学
  • 大塩平八郎 - 江戸後期の儒学者(陽明学者)。寛政5年に生まれる。号は中齋。はじめ江戸の林家に入門、朱子学を学んだが、のち陽明学に転向し、高い学徳を身につけた。27歳の時、大坂町奉行配下の与力から吟味役となり裁断に敏腕をふるった。
  • 知行合一 - 陽明学の実践重視の立場を示す説。朱子学の先知後行説が認識を実践よりも優先重視するのに対して、真の認識は実践を通じて獲得されるという見地から認識と実践を一致させる必要を説く。
  • 知行合一を悟る - 「物の理は心の外にあるのではない! 「理」は我が心の中にあるのだ!」と、それまでの陽明は、あくまで朱子学の考えに沿った思考をとっていたが、この時、遂に朱子学とたもとを分かつ「陽明学」が産声を上げた。翌年、陽明38歳のときには陽明学の基本的な思想である「知行合一説」の論を唱え陽明学は徐々その形を整えはじめた。
  • 知行合一説 - 陽明学の実践重視の立場を示す説。朱子学の先知後行説が認識を実践よりも優先重視するのに対して、真の認識は実践を通じて獲得されるという見地から認識と実践を一致させる必要を説く。
  • 地名が松山から高梁になった訳は? - というのも、江戸時代の学問といえば朱子学。その入門書「孟子」の最初の逸話が「梁恵王(リョウケイオウ)」の話である。これは、孟子の時代、中国に「梁(リョウ)」という国があり、梁の王・恵王が孟子に国の利益になる妙策を孟子に尋ねる、すると孟子はこう言う「利益を口にすれば人は自分のことばかり考えます。仁義があってこそ、人々は共通の利益をはぐくめるのです。」と。この思想は方谷先生の生涯を通じて貫かれた思想でもある。
  • 致良知を悟る - 「良知」こそが陽明が朱子学について抱いていた疑問を解決する決定的な物だった
  • 中江藤樹 - (1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問答」を著す。晩年、王陽明の著書に接し、我が国陽明学の祖となる。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称された。門下に熊沢蕃山がいる。
  • 日本の陽明学者 - (1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問答」を著す。晩年、王陽明の著書に接し、我が国陽明学の祖となる。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称された。門下に熊沢蕃山がいる。
  • 夫婦仲はどうだった? - いくら松山藩校有終館で学問が出来るとはいえ、丸川松隠のもとでみっちりと朱子学を学んできた方谷にとって、藩校有終館での学問はまるで物足りない物でした。
  • 方谷の人間研究 - 佐久間象山は松代藩の朱子学者で方谷が江戸遊学中、佐藤一斎塾でともに学んだ。学友である。
  • 幕末辞典 - 朱子学
  • 孟子 - 孟子の対立思想として、荀子の性悪説がよく挙げられる。しかし孟子は人間の本性として先の「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。ケダモノの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っていず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。一方荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。
  • 陽明学 - 中国明代の王陽明およびその学派の新儒教学説。元・明代に官学として重んじられた朱子学の主知主義的理想主義的傾向に対して現実主義的批判を加え、主体的実践を重視した。心が理であるという心即理(しんそくり)、生来の道徳的判断力を発揮せよという致良知(ちりようち)、認識と実践を一致させよという知行合一(ちこうごういつ)、欲望を肯定する無善無悪などを主要な学説とする。王学。
  • 陽明学とはどんな物? - 日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。逆に陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。ただし、これは陽明学を学ぶと革命志向になるのか、元々革命志向な者が陽明学に吸い寄せられたのか、意見のわかれる所である。中国の革命運動が今文公羊学に影響を受けているとすれば、日本の革命運動は陽明学に影響を受けているといえる。