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- 熊沢蕃山 - 熊沢蕃山
- 山田方谷 -
山田方谷は、文化二年、阿賀郡西方村(現高梁市中井町西方)の農商の家に生まれきゅうた。名は球、通称は安五郎で、方谷というのは号である。五歳の時から新見藩儒者丸川松陰のもとで朱子学を学び、神童と言われていたとのことである。両親の死によってやむなく家業の製油業を継ぐが、そのかたわら学業にも励かつつねむ。その様子が藩主板倉勝職の目に留まり、文政八(一八二五)年、二人扶持を与えられ、藩校有終館の会頭となる。江戸遊学後は朱子学から陽明学に転じ、陽明学者熊沢蕃山に多大な影響を受けた。嘉永二(一八四九)年、勝静が藩主となると共に元締役兼吟味役に抜擢され、ついに藩政の表舞台に立つことになる。そして、方谷の手腕によって、松山藩は、負債十万両を返済したのみならず、さらに十万両の余財をみるに至ったのである。
- 中江藤樹 -
(1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問答」を著す。晩年、王陽明の著書に接し、我が国陽明学の祖となる。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称された。門下に熊沢蕃山がいる。
- 日本の陽明学者 -
(1608-1648) 江戸初期の儒者。近江の人。名は原、字(あざな)は惟命(これなが)、通称与右衛門。伊予国大洲藩に仕えたが、のち帰郷。初め朱子学を信奉、孝の徳目を重んじ「翁問答」を著す。晩年、王陽明の著書に接し、我が国陽明学の祖となる。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称された。門下に熊沢蕃山がいる。
- 幕末辞典 -
熊沢蕃山