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  • 久坂玄瑞 - 八・一八の政変では尊攘派七卿を伴い都落ちする。禁門の変では指揮をしていたが、鉄砲で打たれ負傷しもはやこれまでと自刃する。
  • 禁門の変 - 禁門の変
  • 原田亀太郎 - '63年(文久3)尊壌派は、嬢夷祈願のため孝明天皇の大和行幸を決し、それを機に討幕軍を起こすことまで計画した。こうした情勢の中で、中山忠光を擁した天言朱組の義挙に勇躍して参加したが、8月18日の政変で、薩摩・会津両藩の公武合体派が勢力を握ったことから政情は一変し、追討諸藩の攻撃を受けることになった。逃れて紀伊国(現和歌山県)に入ったが小俣で和歌山藩兵に捕らえられ、京都六角獄につながれた。禁門の変のさなかの'64年(元治1)7月19日、同囚32人とともに斬に処せられた(『維新史』)。刑死数十日後、父市十郎が持参した亀太郎の遺像および獄中書をみた師森田節斎が画像記を書いたが、それが稀有の名文であったため、亀太郎の名声はますます喧伝(けんでん)された(『高梁先賢祭二+五祭神伝略』)。
  • 原田亀太郎とは誰? - 禁門の変のさなかの元治元年(1864年)7月19日、同囚32人とともに堀川の獄にて斬に処せられた。享年27才であった。
  • 松平容保 - (1835-1893) 江戸末期の会津藩主。幕末動乱期に幕政に参画、京都守護職となり公武合体を推進。禁門の変では長州藩を撃退。会津戦争では佐幕派列藩同盟の中心となり、会津城に籠城したが敗れて降伏。
  • 長州藩騎兵隊の原型が里正隊というのは本当? - 幕末奇兵隊は二度にわたり、備中松山を窺いましたが反転して帰国しました。何が奇兵隊に去来したか想像できます。日下玄瑞は元治元年(一八六四)、禁門の変(蛤御門の変)で自刃しました。弱冠二四才でした。
  • 蛤御門の変 - 1864年7月、前年の八月一八日の政変で京都を追われた長州藩が、形勢挽回(ばんかい)のため京都に兵を進め、会津・薩摩藩などの兵と蛤御門付近で交戦して敗れた事件。禁門の変。
  • 幕末辞典 - 禁門の変
  • 木戸孝允 - 翌元治元(1864)年の新選組による池田屋襲撃を逃れたのちも京都に潜み、真木和泉ら激派の突出を抑え正藩従合に苦心したが、禁門の変を未然に防ぐことはできなかった。禁門の変で長州敗退後、但馬出石に潜伏した。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに、芸妓幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。