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  • 鎌田玄渓 - 鎌田玄渓
  • 川田甕江 - 備中国浅口郡に生まれる。父は同国玉島の回船問屋であったが幼いうちに両親に先立たれて没落し辛い少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられる事となった。その時備中松山藩の執政であった陽明学者山田方谷が藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。甕江は備中松山が故郷に近い事に加えて、わずか数年で松山藩の財政再建を実現させた山田方谷の学識と手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩の半分の備中松山藩への仕官を決めたのである。安政4年(1857年)28歳の出来事であった(ちなみに甕江の仕官前に彼の評判を聞いた方谷は自分の力量を認めて弟子を江戸に送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。
  • 服部犀渓 - 備中松山藩士。漢学者。名は義憲。通称は陽輔。犀渓は号。藩校有終館で学び、山田方谷に従学した。鎌田玄渓、進鴻渓とともに方谷門下の高弟として有名な三渓の一人であった。
  • 幕末辞典 - 鎌田玄渓