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  • 科挙 - 科挙
  • 四書五経 - 南宋の朱子が『礼記』から『大学』と『中庸』を独立させ、『論語』『孟子』と合わせ「四書」として五経以前に読むべき入門の学として顕彰し、その注釈書として『四書集注』を著した。四書は元代以降、科挙の科目に採用され、五経よりも広く読まれるようになった。
  • 進士 - (1)中国で、科挙の科目の一。また、その合格者。宋以後では、殿試に合格した者の特称。
  • 幕末辞典 - 科挙
  • 孟子 - 孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の“道統”を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗の煕寧四年(1071)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊六年(1083)、孟子は初めて政府から“鄒国公”の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。元代の至順元年(1330)、孟子は加えて“亜聖公”に封じられ、以後“亜聖”と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。
  • 陽明の希望と挫折 - その後、22才と25才の時、進士(中国で、科挙の科目の一。また、その合格者。宋以後では、殿試に合格した者の特称)の試験に挑戦した。しかし残念ながら2度とも落第、失意の中、再び辞章の学や兵法についても学ぶようになった。27才になったとき、またしても朱子の教えに基づき、物の「理=本質」を追求しようと試みたが、またしても失敗、陽明の中ではどうしても「心」と「理」は融合せず、失意の中再び持病が発病、またもや聖人になる夢を諦め、道士の養生の説を慕うようになった。