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木戸孝允の変更点

+木戸孝允
+【きど たかよし】
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+天保4年6月26日(1833.8.11)−明治10年5月26日(1877.5.26)
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+長門国萩呉服町江戸至横丁。長州藩士。幕末維新期の志士、政治家。
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+父は長州(萩)藩医和田昌景、次男。天保11(1840)年桂九郎兵衛の養子。養家150石(末期の養子故、90石を継ぐ)。諱:孝允。通称:小五郎、貫治、準一郎。変名:新堀松輔。雅号:松菊、木圭、広寒、猫堂、老梅書屋、竿鈴(干令)。
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+嘉永2(1849)年吉田松陰に入門。
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+同5年江戸に遊学、剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となる。さらに下田奉行与力中島三郎助に造船術を、また長州藩士手塚律蔵、美濃の人神田孝平について蘭学を修めた。
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+万延元(1860)年水戸藩の尊攘派である西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結び尊王攘夷運動に参加、次第に高杉晋作、久坂玄瑞らと並んで尊攘派のリーダーとなっていったが、その一方で勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも親交を持った。
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+文久3(1863)年8月18日の政変後も京都にとどまって藩の信頼回復に努め攘夷親征を画策したが堺町門の変のため挫折。
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+翌元治元(1864)年の新選組による池田屋襲撃を逃れたのちも京都に潜み、真木和泉ら激派の突出を抑え正藩従合に苦心したが、禁門の変を未然に防ぐことはできなかった。禁門の変で長州敗退後、但馬出石に潜伏した。身なりをやつして二条大橋の下に潜む桂のもとに、芸妓幾松(木戸松子)が握り飯を運んだという有名なエピソードはこのときのものである。
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+慶応元(1865)年4月帰藩、9月29日藩主から木戸姓をもらい木戸貫治と改名、対幕抗戦の藩論決定に活躍した。
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+同2(1866)年正月、京都薩摩藩邸において、坂本龍馬らの斡旋で薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛らと倒幕の薩長連合密約を結んだ。同3年秋、長州藩を訪問した大久保利通、西郷らと討幕挙兵について協議した。
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+王政復古後、明治元(1868)年正月太政官に出仕して徴士となり、五箇条誓文の草案を起草し、新政府の参与となった。また秋には大久保に封建領主制の改革について説き、この構想は翌2(1869)年の版籍奉還となって実現した。
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+同2年正月の薩長土肥四藩主の版籍奉還建白の実現には中心的役割を演じたが、この前後、国家統一の政略として征韓論を主張した。
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+同3(1870)年6月参議に就任、4年7月の廃藩置県の断行にも西郷隆盛とならぶ参議として重責を担った。この間、開明急進派のリーダーとして、漸進派の大久保としばしば意見の対立をみた。同年11月より岩倉遣外使節団副使として欧米を回覧して6年7月に帰国、憲法制定を建言した。西郷らの征韓論(明治6年の政変)には、内治派として岩倉具視や大久保利通らと共に反対した。
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+同7(1874)年正月、文部卿を兼任、2月の征台の役(台湾出兵)に反対して参議を辞し、宮内省出仕となり、明治天皇の側近にあって補佐した。
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+同8(1875)年2月、大久保と板垣退助の間を斡旋する大阪会議を開き、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保主導体制に不満を漏らすことが多く孤立しがちであった。同年3月参議に復帰し、6月の第1回地方官会議の議長となり、また元老院章程草案作成に参加した。
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+9年3月参議を免ぜられ内閣顧問となり、6月奥羽巡幸に供奉、8月宮内省出仕。
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+10(1877)年の西南戦争には、京都の行在所にあって事変処理に当ったが、健康がすぐれず、5月「西郷よ、いいかげんにしないか」といい残して、京都で病死した。歳45。
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+-幕末辞典-