-!!1.少年時代 +父の名は「五郎吉」、母の名は「梶」、梶は今でいうところの「超」のつく教育ママでした。兄弟は妹に「美知」がいましたが方谷が8歳の時(文化9年・1812)に病死、、その後10歳の時(文化11年・1814)に弟「平人」が生まれました。 -方谷の家族構成は? +平人が生まれたころの方谷は新見の儒学者・丸川松陰のもとで学問を学んでおり、神童としての頭角をめきめきと現していました。 +その4年後からつぎつぎと不幸が方谷に襲いかかります。 +方谷が14才のとき母・梶が突然の病死、父・五郎吉は家業の人手を補うため、母の出所・西谷家から後妻「近」を後妻として迎えました。しかしその一年後、今度は父が梶の後を追うように病死、方谷は15才にして、ほとんど面識のない継母・近と幼い弟を養わなければならない状況下に陥り、師匠丸川のもとを去る決心をします。 -父の名は「五郎吉」、母の名は「梶」、梶は今でいうところの「超」のつく教育ママだった。兄弟は妹に「美知」がいたが、方谷が8歳の時(文化9年・1812)に病死、、その後10歳の時(文化11年・1814)に弟「平人」が生まれた。 -このころ方谷は新見の儒学者丸川松陰のもとで学問を学んでおり、神童としての頭角をめきめきと現していた。そんな折り、方谷が14才のとき母・梶が突然の病死、父・五郎吉は家業の人手を補うため、母の出所西谷家から後妻「近」と再婚した。しかし今度はそんな父が一年後妻・梶の後を追うように病死、方谷は15才にして、ほとんど面識のない継母・近と幼い弟を養わなければならなくなり、師匠丸川のもとを去る。 +家業を継いでしばらくした頃(方谷17才)、新見藩士の女若原氏「進(16才)」をめとり、22歳の時長女「瑳奇」が生まれました。 +この当時、方谷は家族をあまり顧みずに学問に邁進、京都・江戸への遊学を繰り返し夫婦仲は良いとは言い難いものでした。 -家業を継いでしばらくした頃(方谷17才)、新見藩士の女若原氏「進(16才)」をめとり、22歳の時長女「瑳奇」が生まれた。この当時、方谷は家族をあまり顧みずに学問に邁進、京都・江戸への遊学を繰り返し夫婦仲は良いとは言い難いものだった。 -嘉永2年(1849)進と離婚した翌年の11月27日、唯一の肉親だった弟・平人が36才で病死、直後に松山藩の元締役兼吟味役を拝命するというタイミングだった。 -その翌年、継母近が70才で没す。 -安政元年、方谷が後年生き甲斐とした愛娘「小雪」が生まれた。母は再婚相手の荒木主計の姉(名前は残っていない)、しかし同年、荒木主計の姉と2度目の離婚、バツ2となる。 +嘉永2年(1849)進と離婚した翌年の11月27日、唯一の肉親だった弟・平人が36才で病死、直後に松山藩の元締役兼吟味役を拝命するというタイミングでした。 +その翌年、継母近が70才で没。 -安政3年、方谷52歳の時、三度目の妻「みどり(39才)」を吉井氏より迎え、方谷はこのみどりにより、初めて家庭の温かさを知った。(みどりは明治25年没享年75才) -慶応3年12月、大政奉還直後、方谷は急いで小雪を矢吹家の発三郎に嫁がせた。 -そして翌年1月18日、備中松山城無血開城。 +安政元年、方谷49歳、後年生き甲斐とした愛娘「小雪」が生まれた。母は再婚相手の荒木主計の姉(名前は残っていない)、しかし同年、荒木主計の姉と2度目の離婚、バツ2となります。 -明治に入り、方谷は小阪部の地で子弟教育に努め、充実した日々を過ごしていた。 -そんな矢先の明治5年、小雪が19才で病死、肺病だった。 -驚異的な改革を成功させた鉄人「山田方谷」も家庭にはあまり恵まれなかった。 -しかし、臨終の地小阪部で方谷は愛すべき弟子達全員に看取られ73年の人生を終えた。 +安政3年、方谷52歳の時、三度目の妻「みどり(39才)」を吉井氏より迎えました、方谷はこのみどりにより、初めて家庭の温かさを知ったといいます。 +(みどりは明治25年没享年75才) + + +慶応3年12月、大政奉還直後、方谷は急いで小雪を矢吹家の発三郎に嫁がせました。 +翌年1月18日、備中松山城無血開城。 + + +明治に入り、方谷は小阪部の地で子弟教育に努め、充実した日々を過ごしていました。 +そんな矢先の明治5年、小雪が19才で病死、肺病でした。 + + +驚異的な改革を成功させた鉄人「山田方谷」も家庭にはあまり恵まれませんでした。 +しかし、臨終の地小阪部で方谷は愛すべき弟子達全員に看取られ73年の人生を終えました。