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地名が松山から高梁になった訳は?の変更点

+!!!地名が松山から高梁になった訳は?
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+「勝てば官軍 負ければ賊軍」と言われているとおり、鳥羽伏見の戦いでの敗北により備中松山藩は「賊軍」となった。松山藩同様賊軍となった仙台、会津、米沢、長岡といった同盟軍の管轄だった地名がことごとく県名になれなかった様に、松山藩も藩復興に際し「朝敵であった備中松山藩の呼称はまかりならぬ」と改名を迫られ、「高梁」「高倉」の2案のうち「高梁」を選択した。
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+そもそも昔からこの地は「タカハシ」と呼ばれていた、土地の中央に大きな川が流れておりその両岸に生活地域があるため、川にはいくつもの橋が架かっていた、しかし大水の度に橋が流れ、その都度橋の高さがどんどんと高くなっていったことに由来すると言う。
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+しかし14世紀の頃、北条氏の鎌倉幕府の将として後醍醐天皇の軍と戦った三好一族の高橋九郎左衛門兄弟が備中の守護職となって当時の高橋城に入城、その子又四郎の時代「城主名と城の名前が同じなのは好ましくない」と城名を松山城、地名を松山のかえた。それ以後、城下地域を「松山」その廻りの地域を「高橋」と呼んだ。
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+新しい地名に「橋」ではなく「梁」の字を使用したのは、幕末に頼山陽が訪れたとき作った詩に由来したと云われる。しかし筆者はもうひとつ別の意見を持っている。
+この高梁という名前をつけたのは方谷先生ではないのだろうか?
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+というのも、江戸時代の学問といえば朱子学。その入門書「孟子」の最初の逸話が「梁恵王(リョウケイオウ)」の話である。これは、孟子の時代、中国に「梁(リョウ)」という国があり、梁の王・恵王が孟子に国の利益になる妙策を孟子に尋ねる、すると孟子はこう言う「利益を口にすれば人は自分のことばかり考えます。仁義があってこそ、人々は共通の利益をはぐくめるのです。」と。この思想は方谷先生の生涯を通じて貫かれた思想でもある。
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+備中松山が「高梁」という名の町になった明治2年、まだ方谷先生が政治顧問をしていた時代。「高梁」という名の正式な由来に「山田方谷」という名前は出てこないが、「高梁」という名を付けるとき、方谷先生は間違いなくその中心人物としていたはず。
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+方谷先生は「高梁」という名前の「梁」の字に「仁義があってこそ、人々は共通の利益をはぐくめる」という信念や理想をこめ、後世の私たちに託したのではないかと思うのである。