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岩倉具視の変更点

+岩倉具視
+【いわくらともみ】
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+(1825〜1883) 
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+下級公家堀川にうまれた。のち岩倉の養子となる。
+関白鷹司政通に接近し、孝明天皇の近習となり、政治家として活動を始めた。安政5年(1858)日米修好通商条約の勅許を願い老中堀田正睦が上洛すると、反対派公家88人で勅許阻止のため列参。朝廷での地位を築いた。
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+和宮降下の件では、朝廷の権力回復の為にと、幕府と通じ、孝明天皇を動かし、強引に実現させたが尊攘派を激怒させることとなり、辞官・剃髪のうえ、郊外の岩倉に蟄居となった。(文久2年〜慶応3年の約5年間続いた。)その間にも密かに政治活動を起こし、特に薩摩の急進派と接するようになり、三条実美とも提携し、倒幕思想を固めていった。
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+孝明天皇が没し、明治天皇が即位すると復職。工作により「倒幕の密勅」が薩長に降りたが、徳川慶喜の大政奉還を朝廷が受理し、先を越される。しかし、岩倉主導で「王政復古の大号令」のを発し王政復古が実現した。続いての小御所会議では明治天皇の御前で慶喜の辞官と領地返上を主張、決定させた。
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+これにより新政府から排除された慶喜は鳥羽・伏見の戦いを起こすが敗れ、朝敵となるに至ったのだった。 
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+-幕末辞典-