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次いで大塚宗俊の子孫代々が吹屋銅山を経営し幕末に至るまで約100年間これに関係している。備中一の宮の吉備津神社の大鳥居は宝暦12年に大塚理右衛門が独力建立寄進したものである。この頃が吹屋は第二期の繁栄期である。 明治6年(1873年)岩崎弥太郎(三菱)に移り,水力自家発電により選鉱,精錬,坂本から成羽まで,トロッコ専用道路を敷設するなど近代鉱業として明治年間大いに栄えた。 町も第三次の繁栄をしたが,昭和期に入り次第に衰え現在は閉山されている。 こうした中にあってこの笹畝坑道は多くの銅山抗口がある中でも比較的変化に富み,当時の面影を残す坑道跡で,昭和53年度吹屋ふるさと村整備事業として復元整備され,昭和54年11月から一般に公開している。坑道の復元延長は320mで中央部は蜂の巣のように採掘されており,また鉱石搬出用軌道も残されておるなど見せ場も多く,内部気温は15℃と夏は涼しく冬は暖かい別天地である。 |
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ところが大陸から青銅や鉄の道具が伝わってくると、強くて便利な金属がいろいろなことに使われるようになった。最初は、土や砂の中にまじっている金や鉄を集めていたが、そのうち、岩石の中にふくまれている金や銅を採り出す技術が進み、吹屋では平安時代の初めには、採掘が開始されたと言われている。江戸時代になって、一六一五(元和三)年頃から百三十年余りと、明治に入ってから再び大いに栄えた。 明治に入り、大資本による経営となり、操業の機械化、経営の革新などによって日本屈指の銅山となり、精錬所がつくられた。粗銅の運搬のため田原のち坂本から成羽まで人車鉄道がつくられた。このように栄えた吹屋にあった銅山も、年々不振となり、一九七二(昭和四七)年に閉山した。 なお、現在吹屋の人口は八○○人ほどであるが銅山の最もさかんだった明治の初め頃の人口は、約三〇〇〇人で多くの商人が集まり、鉱山と共に繁栄していた。大阪までの銅の運び方は、明治時代には次のようになっていた。吹屋から成羽まで(約十ニキロメートル)1牛・馬成羽から玉島まで(約三十六キロメートル)1高瀬舟玉島から大阪まで(約二百キロメートル)1船 <出典:高梁歴史読本 高梁青年会議所発行> |
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