このコーナーでは天誅組ゆかりの地を写真で紹介しています。
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天誅組の軍行において最初に本陣を構えたのがここ桜井寺である。
天誅組は吉野天領7万石を直轄する五條代官所を襲撃、代官鈴木源内ら5名を討ち取り近くの桜井寺を「天誅組本陣」とし、五條御政府の樹立を宣言、管轄の村を天領から天朝の直轄とし年貢半減の布告を行った。
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桜井寺本陣跡の碑として正面に向かって右側、植え込みの中に立っている。
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天誅組の構えた本陣の中でも最も重要な要所となったのが天ノ川辻本陣である。
中山忠光率いる天誅組本体がこの本陣を離れた後も総裁吉野虎太郎はこの天ノ川辻本陣の重要性を訴えてここにとどまった。
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天の川天誅組本陣跡の碑
(吉野郡大塔村)
鶴屋治兵衛は天詠組の義挙に際し、屋敷を本陣に、そして家財道具から兵糧まで提供し、義十の行動を容易ならしめた人であるが、天誹組が敗れて屋敷が幕府の本陣になるのを好まず、自ら屋敷を焼くという義気の持ち主でもあった。
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観心寺(かんしんじ)
(河内長野市)
文武天皇の大宝元年(七〇一)役小角によって開かれる。その後、大同三年(八○八)に空
海が訪ね、境内に北斗七星を勧請される。
金堂と本尊の如意輪観世音菩薩が国宝に指定され、三重塔建立予定が正成が湊川で討死のため、未完のまま現在まで残っている建掛塔などがある。
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(観心寺)
延元元年(一三三六)五月、足利軍と兵庫湊川にて戦うが敗れ、切腹して果てる。
足利尊氏の命令によって、その首が当寺に送り届けられ、ここに祀られる。
楠木正成公とは・・・
元弘元年(一三一二)京都の笠置山に脱出していた後醍醐天皇の呼び掛けに応じて、一族をあげて河内赤阪城で挙兵するが敗れる。しかし羽)一年再び、千早城にて挙兵する。新田義貞、足利尊氏、楠木正成らの活躍で鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による「建武中興」が成る。源氏・平氏から徳川家に至る武家の歴史を描いた頼山陽の「日本外史」は水戸史学の影響もあり、楠木氏を称賛してやまない。 |
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楠木正成公首塚前広場
天詠組義士は、この広場に整列をし、中山忠光卿が祈願文を読み上げた。
轡蒼とした大木の中から今にも鎧に身を固めた義士が現われそうな静寂な森である。
千早(ちはや)峠(千早赤阪村)金剛山の西へ延びる尾根には千早城跡があり、赤阪城落城の後、秘密裏に楠木正成が築いたといわれている。
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(五條市)
儒学者、森田節斎は名を益、字を謙蔵、号を節斎という。
文化八年、五條で医者を営む文庵の二男として生まれ、十五才の時、頼山陽に学び、備中岡山にも一時、塾を開く。
備中での門人に松山藩士、原田亀太郎がいる
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(水郡善之祐邸その1)
水郡(にごり)家は紀有常を遠い先祖とし、伊勢国神戸藩の代官または大庄屋をつとめていた。
この屋敷は安永2年に他所から移した物で武者隠しや押入から外部へでられるなど、特殊な作りを持ち、徳川初期の建物といわれる。
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(水郡善之祐邸その2)
水郡善之祐を頭とする河内勢13名(原田亀太郎を含むは9月11日、。忠光率いる天誅組本体のたび重なる迷走に失望し、天誅組を離脱する。
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(天誅組が敗走した十津川方面)
天誅組の戦の舞台となったのがここ十津川郷である。十津川の郷士は天誅組とともに幕府軍と一戦を交える。
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(竜神温泉近く)
天誅組本体を離脱した河内勢も各地で攻撃を受け、生き延びていたのは原田亀太郎を含む八名となっていた。彼らは「これまで」と全員自刃しようとするが善之祐の「幕府の刑場にて死し、以て天下、後世の人に大義名分のために一身を犠牲にして、このことを知らしめる」との言葉に賛同、自首することとし、小又川村の和歌山藩に出頭、同村の百姓、喜助の米倉(のちにいう天誅倉)に幽閉された。
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このコーナーは「維新残影」の著者である守田正明氏の全面協力の下お送りいたします。上で紹介している写真や文章の著作権は守田正明に有ります。コーナー内の写真や文書の転載はご遠慮くださいますようお願いいたします。また、多くの写真の提供や文の転載に快く許可をいただいた守田正明氏に心より感謝いたします。
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