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辻七郎左衛門(つじひちろうざえもん)

板倉勝静の側用人として、勝静が幼いときから従事している松山藩の重鎮の一人
一時期は松山藩の首相も務めた。著書「艱難実録」は函館の新選組を知る上での貴重な資料となっている。

竹内元太郎 (たけうちげんたろう)

備中松山藩士。文久三年七月以降に入隊し、池田屋事変にも参加している。
竹内は土方部隊として屋外の守備につき 褒賞金十五両を賜った。
その後鳥羽伏見の戦いを経て、江戸に帰還したのちに脱走。

維新後は石川武雄を名乗り一時期旧隊士の岩崎一郎や結城無二三らと交流した。

乙部剛之進(おとべごうのしん)

?〜明治2年5月11日
明治元年9月17日頃入隊、依田織衛の弟といわれる。弁天台場で戦死、墓は市内頼久寺にある。
板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
弁天台場で討死した。蝦夷地渡航後は番兵取締役の任に当っていた。
戊申の役に際しては、武部銀次郎と名乗っていた。
依田織衛(よだおりえ)

天保7年〜?明治元年9月17日頃入隊、松山藩士の隊長格、土方俊三や森弥一佐衛門とそりが合わなかったらしく、平隊士として冷遇された。箱館総攻撃時、弁天台場で降伏。

戊申の役に際しては 西村小左衛門(にしむらこざえもん)と名乗った。
板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
出生は天保7年・江戸。 藩士十一名を統率して、新選組に入隊した。弁天台場で降伏し、そののち東京に送られ3年1月に放免となった。
本武権平 (もとたけごんぺい)

文政九年〜?
板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
出生は文政九年・江戸。会計方として従事、箱館総攻撃では、武部銀次郎らと、箱館山から逃げ延びたことが記録されている。幕府軍敗北の後、弘前の薬王院に収容されその後3年1月に放免となった。

古屋丈之助 (ふるやじようのすけ )

嘉永五年〜?
元の名は高田錠之助
慶応四年四月、板倉勝静親子が日光南照院に避難した際、古屋は供をして藩邸を出た。以後板倉親子に随行。
板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
嘉永五年に江戸で生まれる。藩主勝静の御供番をつとめた。明治二年四月ごろの編成で、第三分隊に所属となり、箱館総攻撃時、弁天台場で降伏、そののち東京に送られ3年1月に放免となった。
尋問を終え放免になった古屋は父高田亘が切腹になったことを知る。失意のまま国に帰りその後本名の高田錠之助を名乗ることなく新選組での通り名古屋を名乗り続けた。

河村八十右衛門 (かわむらやそえもん)

文久一一年〜?
板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
出生は文政11年に江戸。古屋丈之助と同様弁天台場で降伏し、そののち東京に送られ3年1月に放免となった。

小島造酒之丞 (こじまみきのじょう)

板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
西組一番として、市中取締の任にあたった。弁天台場で降伏し、そののち東京に送られ3年1月に放免となった。

矢部兵吾 (やべひようご)

板倉勝静が蝦夷地に渡る際、勝静に同行するため平隊士として入隊。
慶応3年1月前半に、勝静の随臣が体調を崩したため、新選組を離れて勝静に従い、4月には、勝静の箱館脱出に随従して、浦賀にわたっている。

伊藤安右衛門(いとうやすえもん)

辻七郎左衛門とともに勝静の同行が許された松山藩士、勝静の蝦夷地脱出にも同行している。

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