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−山田方谷(やまだほうこく)とはいかなる男か−
徳川吉宗・上杉鷹山を凌ぐ見事な藩政改革を行った方谷。実は彼こそ大政奉還上奏文の起草者でもあった。信念を貫いた生涯、知られざる家庭生活と苦悩等、勝者の歴史に忘れられた人間山田方谷。山田方谷の名前に記憶が無くとも、越後長岡藩の破天荒な英雄河井継之助が3度土下座を繰り返して生涯の師と仰いだ人物、と逸話を語ると案外思い出す人がいる。
越後長岡を武装中立国にしようとしてならす、十倍の官軍を震え上がらせて激戦の北陸戦争に散った継之助は、三十三歳の時、はるばる備中松山に遊学し、旅日記「塵壺」を残した。山田方谷を慕って備中松山を訪れ、継之助が半年以上も内弟子となってそこに滞在したのは、師の方谷が前人未踏の藩政改革を達成して、民百姓から神のごとく敬われている幕末の最も有名な陽明学者だったからである。
方谷の説いた帝王学
「理財論とは」方谷32歳の時、佐藤一斉塾在塾中に書いた小論文である。
「対策」とは律令制下の中国の官吏登用試験で、出題に漢文で答える試験である。方谷はこの対策の前に「まねる」と言う意味の「擬」という文字をつけて「擬対策」とした。
本文は本来漢文の「擬対策」を現代語訳してわかりやすくしたものである。また文章は本来謙譲語だが、ここでは敬語表現はすべて省いてある。
「誠」とは
上杉鷹山とは財政の破綻した米沢藩の大改革を成し遂げた人物として、現在でも高い知名度を誇る、ケネディ大統領が尊敬する日本人のひとりとして名前を挙げた事でも有名だ
佐久間象山は松代藩の朱子学者で方谷が江戸遊学中、佐藤一斎塾でともに学んだ。学友である。
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